ハウスみかんを獲得〈続編〉

道の駅「くるら戸田」

今回の記事は先月、当ブログに書いた「ハウスみかんを獲得」の続編である。そのとき使用した沼津市内浦~戸田峠のルートを今回、実際にたどって砂防ダム行脚にチャレンジした。

9月25日、炉端焼き店のアルバイトを終え、その後自宅に戻り就寝。翌26日は午前8時に起床した。この日はホームセンター、炉端焼き店とともに仕事が休みであったためゆっくりとした朝であった。布団をたたみ、服を着替える。本日目指すのは、自宅と同じ沼津市を自治体とする沼津市戸田。自宅と同じ沼津市・・・、と言ってもその目的地までの道のりは長く、一時間以上を要する。また本日は、内浦重須(うちうらおもす)でみかんを買ってから、現場を目指すという予定を組み立てていた。けっして急いで現場に向かう、という感じではない。ゆっくりとした行程で、残り少ない夏の日を満喫しようという算段で自宅を出発した。

緑色みかんを獲得

沼津市内、千本浜の松林を走り、沼津港前を通過したのち港大橋を渡る。玉江町交差点を右折し、国道414号線に入る。それから島郷、静浦へと続く。9月ももう残すところあと数日であるというのに、今日もまた暑い。途中、右手に見た静浦の防波堤上には多くの釣り人が並んでいた。ここは、静岡県内屈指の人気釣り場である。本日は穏やかであるが、連日の台風報道で釣り場の様子はいかがなものかと心配していたが、その必要は全く無用であったようである。今日の日の夏の暑さを満喫しているようで、そんな心配はかえって魚が散ってしまう余計なお節介であった。静浦を過ぎその後、多比第二トンネルを抜け「口野放水路交差点」で右折、道は県道17号線に入る。「マルカ」にはあっという間についた。露地栽培ものの緑色みかんは台の上の左側の方に並んでいた。車を降り、すぐさま狙いをゲットする。一袋500円。緑色・・・。と、みかんの色を形容するのは、いささか違和感を感じるかもしれないが、これはもう確実に緑色である。太陽の光を一杯に浴びて育ったこの地のみかんが放つその緑はたいへんに力強い。青々としている・・・、などという“国語的な”言い方はふさわしくないように思えるのだ。ようやく大好物の「緑色みかんを獲得」である。

緑色みかんを獲得!

少し変わっている。

「マルカ」を出発し、西浦木負の丁字路を左折する。この海抜わずか数メートルしか無い西浦木負から標高およそ700メートルの戸田峠まで一気に坂を登る。その前半戦はみかん畑地帯といった感じでそれなりに人影を感じるのだが、途中にある「←戸田峠4.8km」の看板以降の後半戦からは少し変わっている。両側二車線で全区間、センターラインの引かれたきれいなアスファルトの道が続くのだが、その道路の綺麗さに反して交通量が極端に少ない。というより、なにも走っていない。超閑散としていて異様である。道路を管轄する側はそのことを知ってか知らずか?どうであろう、どうせ車なんてほとんど走らないから、とばかりに道路の幅の両端に積もった落ち葉を片付けること無く放置したりしている。また、明らかに車道の建築限界を侵している樹木の枝も剪定されること無く放置されているし、いったいこの道路は何なんだ!?と言いたくなる異様さである。そして最後のトドメ!2本の電灯の全く点いていないトンネルをくぐり抜けると戸田峠すぐの十字路に出るので、ここで登り坂が終わる。ここから戸田方面に行きたい場合は右折、修善寺方面に行きたい場合は左折する。今回は戸田に行くため右折した。それにしても、異様な道路である。異様なオーラを放ちすぎて、これは嬉しいことなのか?ゴミすら全然落ちていないのであった。本当に通りの少ない道路なのであると思う。

ずうっーとシャッターチャンスという条件の中で撮った一枚。
異様さを倍増させる動物注意シカバージョン。

御浜岬

戸田へは途中の寄り道が少なかったこともあって午前中のうちに到着した。あまりの暑さに、日が高いうちの現場入りをあきらめ、午前中は戸田もてなしの里公園、午後は、御浜岬周辺でそれぞれ過ごした。御浜岬では、外海側にも戸田湾側にも静浦同様に釣り人がいてキャストをくり返していた。ベタナギの海から照り返される太陽の光を浴びながら私も釣り人も残り少ない夏を満喫したのであった。

今日はこのあたりで歌う。
御浜岬は伊豆半島ジオパークに指定されている。
岬よりも少し内側、小舟ヶ浜
食べ物をくれないやつはいらないニャー(御浜岬にて)

残り少ない夏の日を満喫したのであった。

午後4時。現場に入るため戸田大川に沿って県道18号線を東へ進む。戸田大川の右岸沿いをこの県道18号線に従っていくと最後、「達磨橋」という橋で対岸側に離れるのだが、そのまま右岸側をキープするように直進し、林道に入る。この林道に入った地点からおよそ300メートルのところにY字の分岐があるため、その分岐周辺に通行のじゃまにならないよう車を停める。ここの入渓点は竹ヤブだ。Y字分岐よりわずかに山側、そこに「落石注意」の看板があり、その看板から約10メートルほど手前の竹ヤブを降りる。竹ヤブは密度が濃く、降りにくい所であるがほどなくして戸田大川に降り立つことが出来る。当日は午後5時から短い間であったがここで音楽を楽しんだ。夏の夕暮れ時の歌は特有の風情があって良い。竹ヤブを降りてくる時に、待ち構えていた蚊たちを刺激してしまったのか顔のあちこちがかゆい。こういった特有の風情も蚊たちの猛攻も、あと1ヵ月もすれば失われゆくであろう。今はまだそのことには気づかない。今日の日の日中に襲われる暑さにブーブー文句を言い、顔がかゆいと小さな虫を相手取って恨んだりする。そのことの幸せに全く気がついていないのだ。川に入って1時間後の午後6時、限界の暗さになり終了。―夜のおとずれもずいぶん早くなったものだ。―その後、戸田大川を上がり、再び戸田港方向に向かって車を走らせた。今日は一杯汗をかいた。その汗を流すべく、道の駅「くるら戸田」内にある温泉「壱の湯」を目指したのだ。

温泉から上がり、入り口にある自動販売機でつめた~いジュースを買い、一気に飲み干す。ほかの温泉客も地元民と見られる人たちも、あぁ、いい湯だったと満足げに帰って行く。私もほかの方たちも家族連れの子どもも皆、半袖という出で立ちで通過する「くるら戸田」の正面玄関であった。

砂防ダムの位置はこのあたり
画像右端の林道に入る。
Y字分岐
落石注意の看板
堤体全景。

チャンスタイムは早朝である。

Ⓐ鉄骨製の覆い

Ⓐの画像をご覧いただきたい。ここは私の住む町、沼津市の西隣に位置する富士市内のとある場所である。道路を跨ぐようにして落石等から身を守るための鉄骨製の覆いがあるのがわかる。この鉄骨製の覆い、地元富士市民であればかなり知名度の高い場所であろうと思う。周りの景色がヒントになっていると思うが、とある野外活動スポットの山道を撮影したものだ。これがたかだか山道の覆いなのであるが、非常に有名なところなので「あぁ、あそこね・・・滝の。」と、なると思う。

もう今年は終わってしまったが

静岡県民というのはとかく川遊びが好きな県民であると思う。もう今年は終わってしまったが、夏休み期間中に川沿いを走っていると、川で水遊びやらバーベキューをやっている人々をよく見かける。家族連れで大きなテントやタープを張って本格的にやっているような集団も見かけるし、全員学生風の者たちが自転車数台で乗りつけて河原で遊んでいる姿、こちらもよく見かける。どうせ学生同士で集まるのなら、川では無くて海に行けばいいのに・・・。とも思うのだが、より水の冷たい川水に刺激を求めてか、静岡の元気な子たちは川に全員集合!と相成るようである。私は幸か不幸か学生の頃よりやせ形ボディであったため、いくら夏とはいえ水温の低い川の水の中に入って遊ぶなんて事はできるわけがなかった。川は苦手。(ただし釣りは別。)川派ではなく海派であったのだ。もっとも私の場合、出身が新潟県の内陸部の町であったため、海は滅多に行けない憧れの場所として意識づけられたので海派であったのだと思う。実際、海へ行くとなると自転車の場合は片道2時間以上こぎ続ければならなかったし、他力に頼るのであれば父親の運転する車ということになる。あとの手段は公共交通機関があったが、学生の頃なんてそんなにお金を持っていなかったから、この手段はあってないようなもの。そんなわけで自分の生活圏から海というのはとても遠いものであったし、憧れたし、その空間で過ごせる時間というものはたいへん貴重なものであった。その時間を言葉で言い表すのならば「非日常」であったと思う。

“非”海沿い地域の出身者の思い

さて、静岡県民はどうであろうか?静岡と言ったって広いから一概には言えないが、東西に長い海岸線をもつ静岡県でのことである。海辺に住む者たちを中心に、川にこそ「非日常」があったのではないか?

自分が仮に海沿いの地域の出身者だったら、と考えてみた。
自分が仮に海沿いの地域の出身者だったとしたらまず、海そのものを見ること。この事に別に何の感動も無かったと思う。新潟県は海に接した県であるが、前途したとおり自分の生活圏からは遠いものであったから、海を見る。というそれだけの行為にただただ感動したものだ。自転車でも父親の運転する車でも電車でも、一番海側にある低い丘を越えて、視界にバッと海の青、水平線が入ってきた時のその感動はなんとも言い難いものがある。そして海沿いの地域の日常、つまり浜の日常というものに非常に憧れた。自分の住む世界とは違い過ぎて、なにもかもがめずらしく、新鮮であった。民家の軒先に漁具がぶら下がっている光景、松の林、道路上に散らばる砂、浜にただよう生臭い匂い、海沿いというのは工場も多いし、夕方の5時とかに鳴る防災無線のチャイムですらかっこよく、全てが憧れであった。また、海辺でよく見かける、自転車にクーラーボックスをくくりつけ、ウキの付いた釣り竿やら、でかいタモ網を握りしめて自宅と釣り場の間とを行き来する人、これが本当にうらやましかった。自分もいつかはそういう暮らしをしてみたい。と、そう思った。

海沿い地域の出身者の思い

だがよく考えてみると、それらがその地に生を受けた者として「あたりまえの毎日」であったらどうだったであろうか?そんなのは、田舎くさくて嫌だ!となりそうもなくはない。また、海というものは全てのものが“流れ着く”場所でもある。海岸線でも河口付近でもとにかくゴミが落ちていて汚い。それらも、生活圏として見た時にはマイナスポイントなのかもしれない。そのような環境に日常的に身を置いていたとしたならば、海なんて別に魅力的でも何でも無い。むしろ汚いし、臭いもするし、大嫌いになる可能性すら含んでいる・・・。 
自分が海沿いの地域の出身者でだったとしたら・・・。もはや想像の域を超えることは出来ないが、透き通った水の流れる川に憧れる。そして、そこで遊んだり、食事をしたり、寝泊まりしたりすることに「非日常」を感じ、行動する人たちに対して自分も少しは近づくことが出来てきたように思う。

憩いの場

透き通った水の流れる川、富士市北東部山中を流れる須津川もまた、そのように多くの人々から認められ、愛され、利用されている川であると思う。この川に関していう利用とはズバリ「憩いの場」である。静岡県内屈指の工業都市、富士市の工場ジャングルの中で、生産第一!と、昼に夜に汗水流して働いている人は多い。そういった富士市民、のみならずまた市外からの訪問者を受け入れ、楽しませ、自然を感じさせ、思い出を提供する「憩いの場」をこの川はわれわれ人間に与えてくれている。例年、夏休み期間中は川遊び、バーベキュー、キャンプで川沿いは大賑わいとなりその盛況ぶりに驚かされる。そして、なんといっても忘れてはならないのが、その最奥部(一般車両が入れる最奥部)にある、大棚の滝だ。

このトイレ付近がキャンプに人気。

大棚の滝、下流の砂防ダム

冒頭の画像Ⓐはその大棚の滝前の歩道の様子を撮影したものである。そしてⒷの画像が、その落石防止用の覆いの中から撮影した大棚の滝である。砂防ダムはそれよりも数百メートル下流にある。ここは川幅があり、川の中心部においては空からの光を遮るものが乏しい。しかし、こういった場所でもやはり渓畔林の下に入ることにこだわって立ち位置を決定したい。当日は両岸の岸際から生えた木の中から、左岸側に幾分伸びていたイロハモミジの木の下を選び出し、そこから堤体に向かって歌った。Ⓒの画像の私が立っているところでは無くて、カメラが置いてあるあたり、つまり堤体からおよそ100メートルほど後方に下がったあたりも崖に生える渓畔林の働きがあってこれまた楽しめる。とにかく、暗くなったところを見つけるのが、歌の世界に入り込むためのコツだ。ここは須津山休養林として開発された土地であるため、そのエントリーのしやすさも音楽表現をするにあたり有利にはたらいてくれる。気軽に入れるところであるから、気持ちの面で負担が少ないのだ。しかしそういった意味で逆を言ってしまうと、日中の時間帯は人が多い。ただ場所に関して言えば、幸い、この堤体付近ではキャンプを張る人が少ないので、そのことを生かして早い時間帯に入ってしまえば別段、問題に直面することは無いであろう。チャンスタイムは早朝である。

鉄骨製の覆いまでは徒歩で行くことになる。
須津川休養林
Ⓑ画像中央の吊り橋から見ると滝はより近い。
イロハモミジの木の下から
Ⓒ堤体全景。上部にあるのは須津渓谷橋。

大好き河津町!vol.4

煉瓦は韮山反射炉建立にも使われたらしい。

台風15号が伊豆半島、東伊豆地域を通過したのが今月8日から9日の未明にかけて。その被災状況はすでに多くの報道でなされている通り。賀茂郡河津町においては、河津筏場、峰間に架かる峰橋(通称かっぱ橋)が崩落するなどの被害が出た。報道によればもともとこの峰橋は長い年月の使用によりかなり老朽化していて、通行止めという使用禁止措置が今年の春頃よりとられていたそうであるが、町の景観の一部としての“機能”をもった橋がわずか数時間、同町を通過した1本の台風によって丸ごと無くなってしまったというのは、町外在住者である私にとっても非常に残念でならない。夏場は地元では有名な「飛び込みスポット」であったというこの橋。解体工事によって人為的に取り壊すにしても、関係者にしてみれば小さな式典の一つもあげてやりたかったのでは無かろうか?また、この峰橋の上流側100メートルほどには峰大橋という県道14号線に架かる橋があるのだが、その峰大橋から湯ヶ野方面にかけては、現在進行形で数年前より歩道の拡幅工事の真っ最中である。完成した折りには小学生が安全に登下校出来るようになるらしい。
本当に狭い地域のごく限られた人にしか当てはまらないのかもしれないが、川、橋、道路を含んだ日常の景色というものが、現実と思い出との比較で大きく変わったものになろうとしている・・・。十年一昔という言葉に怖さを感じる今日この頃である。

峰橋跡
大鍋では土砂崩れも

怖さ

今回は、怖さとともに荻ノ入川支流の砂防ダムへと向かった。河津七滝温泉街を荻ノ入川と平行に遡るようにして進むと、「河津七滝オートキャンプ場」の入り口前に出る。そこからさらに登り続けること1.6キロで丁字路の分岐に出る。ここを直進すると、大好き河津町!の第1回で紹介した砂防ダムに行くことが出来る(現在は、画像の通り土砂に埋もれて通行不可。)のだが、今回の行き先は、この分岐を左折、橋を渡ったのち、1.8キロ登ったところにある。登っていく途中にはワサビ田があったり、また丁字路から700メートルの地点には煉瓦の洞遺跡(入り口)があったりする。なお、この丁字路からの道はなかなかの悪路である。文頭にある怖さとは乗っている車のタイヤがパンクしないかどうかということである。

キャンプ場入り口
丁字路
直進側は通行不可であった。

煉瓦の洞遺跡に向かう

煉瓦の洞遺跡入り口には画像Ⓐにあるような標識がある。この標識の手前側すぐに駐車スペースがあるためそちらへ車を停め、歩いて遺跡に向かう。坂を下り、橋を渡り、案内標識に従い、蚊に刺されながら進むと屋根に保護された遺跡を見つけることができた。この屋根に保護された側が焼成窯のAで、向かって左隣には焼成窯のBがある。Bの方は屋根などで保護がされておらず雨風が吹きさらしの状態であり、窯本体にはコケが生え、シダが繁茂している。窯はA,Bともに斜面の上方向に向かって段々になっており、その段々の下部にはなにやら意味ありげな穴が開いている。意味ありげな穴とはタテヨコ15~20センチくらいの不揃いな正方形断面のトンネル様の穴のこと。これがAの場合、段々の最前列では6個、次列以降は何個構えられているのかよくわからなかったのだが同じように続いている。焼成の際必要となる酸素供給のための穴か、薪をくべるための穴なのかは定かではないが、その意匠感というか工夫にこの窯を作った先人の魂を感じた。河津町教育委員会の解説※によればこの窯含め周囲一帯は130年以上前の遺跡という事であるが、その間にどういった意図であろう?遺跡をかすめることに何の躊躇も無くスギが植林されている。窯のすぐ横に植えられた苗木が大きく育ち、恐らくは文化財として保護される際に切り倒されてできあがったであろう切り株などが普通にあるのだ。当時、この地で樹木の伐採、またそのあとのスギの植林に関わった“山の者”たちはいったいなにを考えてこのようなことをしたのであろう?猫も杓子も材生産とばかりに、とにかく木を植えまくることを最重視していたのか、それとも、木が大きく育った時、その幹、樹冠の大きさによって大事な自分たちの村の文化財を保護してやろうと考えたのか?ここは山中とは言え、伊豆半島南東沿岸部に位置する河津町での出来事である。台風はもちろん、そうで無くても雨風の強い日があるであろう。後者の思いであったのだと勝手ながら推測したい。

※以下、〔 〕内は河津町教育委員会作成の案内板より引用
〔湯ヶ野村の板垣助四朗氏の先代がここに陶土を発見、陶器の製造を始めた。(弘化2年)
耐火煉瓦の材料として山中の白土が利用され煉瓦を焼き始めた。(安政元年)
登り窯A、Bの築造と本格的な操業は明治6年以降で工部省製作寮によるものと推定される。
当時、梨本製の耐火煉瓦は良質のものが生産され好評で、各地に送られ溶鉱炉の築造にまた、洋風建築に大いに利用された。
明治16年に官営による営業は廃止されしばらく民営により行われたが、のち閉鎖された。〕 

画像Ⓐ
橋とワサビ田
窯とスギ

“山の者”たちの思い

前述の通り、計算すると砂防ダム本体は煉瓦の洞入り口より1.1キロ登ったあたりにある。荻ノ入川支流がいったん林道から離れ、それが再び接近、林道と平行するようになってからまもなくのところにあるので川を目で追っていれば車で走りながらでも堤体を見つけることが出来る。一年のうちそのほとんどは水が伏流していて落水する様を見ることが出来ないのだが、当日は台風通過3日後という条件のなか、見事落水する中で音楽を楽しむことができた。

自分たちの大事な村を・・・。悪路を登っていった先にこの場所はあるのだが、この砂防ダムを作った“山の者”たちもまたそういう思いを抱きながら完成までの間、ここで作業し続けていたに違いない。

銘板。この川は“小川”というらしい。
渓畔林を見上げる。
落水がめずらしい同所。

3ヵ月したら

小野自動車

―3ヵ月したらまた持ってきます。―
そう言って瓜生野の小野自動車を出庫したのが3ヵ月前の6月。当時のことを思えば、
―あぁ、良かった・・・。―
これに尽きると思う。

6月20日。その日も私は伊豆の砂防ダムを行脚していた。西伊豆方面を数カ所回ったのち、今度は中伊豆の吉奈方面を探ろうと車を走らせていた時のこと。どうも車の調子が悪い。走行中に急にエンジンが止まってしまうのだ。このまま無理して山中を走って、そのあと一歩も動けなくなってしまったでは大変だとやむなく帰路をたどることにしたのだが、その走行中、サイドミラーに目をやると自車のマフラーからは煙がモクモクと上がっているような状態。 
―これはヤバいな。― 
と思ったものの、そんな車の不調の現状を認めたくない自分がおり、とりあえずは、まずは家に、という気持ちでとにかく車を沼津方面へと走らせていた。伊豆縦貫道を北上し、長岡北ICを降りる。狩野川放水路、長塚橋向かいのデイリーヤマザキ前を通り過ぎ、口野トンネル、口野橋と進んだあと多比第二トンネル、そしてその出口へと差しかかった時の事だった。このとき不意に車のメーターに目をやったのはおそらく、トンネル走行時にちゃんとヘッドライトが点いているかということを確認する為だったからであろう。
―あぁ、もうダメだ・・・。―
これまで何の根拠も無く大丈夫なんだと期待感と希望的観測とともに頑張ってきた自分自身であったが、そのいつもとは違う異様な光景を目の当たりにした時、あきらめがついた。無情にも冷却水の温度を示す水温計の針が、まっすぐ上にある「H」の方向に向かってきれいに伸びていたのである。とりあえずはトンネルを抜け、すぐにある信号を左折。ほぼ直後にある多比防潮堤前の駐車スペースに停車。釣り目的でしか来たことの無かったこの場所に、そのいつもとは真逆の、なんとも言い難い「負」の精神状態を持ち合わせた自分が今日はおりたっている。不安な気持ち、しかし、やけどをしてはいけないと警戒するなか、恐る恐るボンネットを開ける。明らかにおかしいのは、Vベルトが1本外れているということ。のちに小野自動車の親方に教えてもらったのだが、このVベルトは車のウォーターポンプを回すためのVベルトで、これが外れてしまうとエンジンを冷やすための冷却水はラジエーターに行くことが出来ない。ラジエーターに行くことが出来なくなり熱を逃がせないまま超熱湯状態ほどにまでなった冷却水は当然のことながら冷却機能を失っていて、その冷却機能を失った冷却水を受けるエンジンはそのまま高温となり、ついにはオーバーヒート。心優しき親方はこれ以上言わなかったが、最悪なところエンジン使用不能という事態に陥るらしい。(幸い今回はそこまで行かなかった・・・。)

多比防潮堤の高く続いた階段を見上げながら、損保会社のロードサービスに電話をかける。どこにいる相手にかかっているのだか、地元、沼津の人間ならほとんど誰でも通じるであろう「多比の防潮堤」が通じない。オペレーターが番地で答えてくれと言うので、車内に置いてあった紙の道路地図を広げ、近くの民家に振ってある番地で答える。

多比の防潮堤

スズメ

それから30分ほどであったか?防潮堤前の駐車スペースでレッカーを待った。その助けは防潮堤本体とは反対側にある国道414号線を介してここにやってくる。国道を上下線に通り過ぎる何台、何十台という車を見ながら、時折現れる大型車に(レッカーではないかと・・・)ドキッとしながらそこで待ち続けた。国道手前側には野球場の内野一面分くらいの空き地があり、砂利と雑草で放置されている。その放置の上を数匹のスズメが食べ物がないかどうかとしきりについばんでいる。車という移動手段を失った自分とは対照的でスズメは元気いっぱい旺盛であった。スズメのような小さな小さな鳥さえもがその時はうらやましく思えた・・・。

防潮堤には、レッカー、レンタカー会社の順で到着した。保険商品のレンタカー特約で借りた軽自動車に乗り、伊豆市瓜生野まで引き返し、車の修理を申し込む。その後、敏腕工場長の手により車は数日のうちに修繕されたが、私自身のスケジュールが合わなかったため、結局車を取りに行けたのは1週間後の6月27日。その時に親方からブレーキパッドを心配する声をいただいていたため、3ヵ月後にまた車を入庫させるということでお願いし、その日は帰った。今回再び小野自動車に車を持ってきたのはそのためであったのだ。

川千代水産、野村水産などの看板もぼんやりと眺めていた。

常に車

いやはや、車は大事に乗らないといけないのだと今回の入庫でまた改めて感じさせられた。あちこちの砂防ダムを行脚する私であるが、その移動手段というのは常に車である。車が無ければ砂防ダムに行くことは出来ないし、たとえ行けたとしても車が健全な状態で無ければ、その行った先から今度は帰ってくることが出来なくなってしまう。車というものに命を預けているということを今一度確認し、それ相応に取り扱っていくということが必須となる。日々、車の状態をチェックしながら乗ることはもちろん、定期的にはプロの目での点検を受けること、消耗品管理は適切に行っていくこととし、車にとって良くない使用方法(シビアコンディションというものにより近い使い方)にはなるべくならないようにし、何より安全運転で、車をこれからも長く使い続けていきたいものである。

車を引き取り後、中伊豆を東へ
八幡の三叉路
今回は菅引川に入ることにした。
菅引第2砂防ダム