呪文を唱える合唱曲〈後編〉

鮎の歌 湯山昭
二の小屋川を示す看板

つづいて〔二の小屋〕について。二の小屋とは二の小屋川のことで、こちらは伊豆市吉奈、吉奈温泉付近を流れる。“付近”というよりさらに解りやすく表現させてもらえば、

二の小屋川は吉奈温泉“内”を流れている。

吉奈温泉には現在、そして当時も「さか屋」と「東府や」の2大旅館があり、両旅館は県道124号線を挟む形で向き合うようにして玄関を構えている。その県道124号線から一本北側に入ったところの狭い道路沿いに二の小屋川は見ることが出来る。

こちらもまた火の沢川同様、幅1メートルほどの小川だ。現在については、「土石流危険渓流」の看板が立てられているあたりも共通している。

位置関係的に両旅館に大変近く、「これはウチの旅館庭園の遣り水です。」と言われても、不思議じゃないくらいのところを流れている。
吉奈温泉内を流れている。という書き方をしても全く問題の無い距離感だ。

そして、二の小屋川は最後、吉奈温泉のシンボルスポットの一つ「登橋」下流側すぐのところで、鮎の歌の〔吉奈〕こと吉奈川に合流しているあたりも火の沢川によく似ている。両者とも狩野川には直接流れ込むのではなく、船原川や吉奈川を介しているのだ。

二の小屋川

どういうわけか皆沢を挟む

〔二の小屋〕と〔吉奈〕はこのように、吉奈温泉と密接な関係にある。そんな吉奈温泉ヒタヒタな二つのワードに挟まるようなかたちで、〔皆沢〕は何故か?登場する。

じつはこの皆沢について、狩野川支流の河川としては2本存在する。1本目は狩野川東岸、伊豆市矢熊を流れる下り沢川のこと。別名:皆沢川。もう1本は狩野川西岸、伊豆市門野原を流れる皆沢川(みなざわがわ)のこと。

私個人の見解として有力なのが、伊豆市門野原の皆沢川。皆沢川のある伊豆市門野原は吉奈温泉のある伊豆市吉奈に隣接する大字で、一本の山道でつながっている距離的にも大変近い集落だ。

前述の県道124号線をさか屋、東府や方向に向かって走ると、それより以前のところに東府やの日帰り温泉客用駐車場があるが、その駐車場手前の丁字路を南に向かって左折し、小高い丘を少しのぼり下りすると、一本南側の谷に出ることができる。

この谷を流れるのが、皆沢川。小高い丘を越えるのはさほどきついことでは無く、谷も谷というほど深いものでは無い。お散歩コースというレベルの山越えである。

詩人の関根栄一が取材時に、この小高い丘を越えたのかどうかは定かではないが、少なくとも狩野川東岸という、全くあさっての方角にある伊豆市矢熊、皆沢川をこの並びにもってくるというよりは、吉奈温泉にほど近い本川を入れ込んでくるということのほうが自然である。

消去法的に言って、吉奈川と隣り合った方の皆沢川を言っているのだと判断したということ。ちなみに、狩野川東岸とか狩野川西岸とかいう言い方をしたが、くだんの呪文部分のトップにある〔猫越〕と一番最後にある〔桂川〕も狩野川西岸に属する。

これらもまた、まず猫越のワードの元になった猫越川は湯ヶ島温泉に隣接し、桂川は修善寺温泉に隣接する。さらに下衆で余計なことかもしれないが、皆沢川の流れる伊豆市門野原も嵯峨沢温泉がある点について付け加えておく。

駐車場前の丁字路。吉奈温泉の看板が目印。
小高い丘の峠付近。詩人も歩いたか?
小高い丘を越えると皆沢川はある。

ヒステリー

ここまで温泉、温泉と散々書かせてもらったから、もうお気づきになったことと思う。

狩野川の本流にそそぐ・・・。なんて言っているけれど、一連の呪文のような詩の部分は

・・・、暗に伊豆の温泉を宣伝しているのでは?

それが意図的な事なのか、偶然的な事なのかということについてはわからない。しかし何者かのように、この歌の詩に興味を持って一本一本の川や沢を調べ、腰を上げて行動した暁には、最終的には「鮎の歌」の導いた温泉地へその者は立つことになる。

そこには温泉宿や土産物店という商業施設が待っていて、「お客さん、旅の疲れにひとっ風呂どうですか?」とか「美味しいお土産ありますよ。」なんて訴えてくるのである。そうなってしまったら・・・?

その流れに身を任せ、現地の湯や美味しいものを満喫すれば良いではないか。まさに「だまされたと思って」リアルな旅のおもしろさがそこにはあると思う。

「お~い、〔狩野川の本流にそそぐ流れ〕だったら、流域で長さ最長の黄瀬川とか、東洋一の湧水量と言われた柿田川があるし、三島市内の合唱団委嘱だったら大場川や境川も必要だら?」などというクレームはここでは受け付けない。ただただ湯に浸かって、心穏やかに時間を過ごしてほしいと思う。一説には船原温泉の効能の一つには「ヒステリー」というものがあるらしい。

「ヒステリー」に覚えのある音楽家は、どうぞご利用くださいまし・・・。

水垢のしっかり付いた狩野川
狩野川に流れ込む吉奈川(右上)

日本全国どこでも楽しむ事が出来る

詩というのは文学の一種である。その文学の世界にもきっとトレンドというか、流行みたいなものがあるのだと思う。

高度経済成長も終焉して以降の昭和47年。当時は私の生まれる前だが、その頃からすでに「都市開発だけで無く、田舎の鄙びた風景も大事にしていこうよ。」といった種の動きがあり、様々な媒体を通じて各地の田舎の風景や古い町並み、その中の商店や旅館が宣伝されていたようである。文学の分野では実在する地名、温泉地、温泉宿を物語に組み込むということが流行って、「鮎の歌」もそういった流行に幾らか影響を受けてしまったか?と思う。

いやいやそんなことは無く、これは純粋に、詩人が自分の足で歩き、自分の目で見て確かめたものだけを作品中に取り込んでいこうとした結果、特定の地域が集中的に書き込まれてしまったのだ!と主張するか?

私は関根栄一の書いた「景色がわたしを見た」や「もえる緑をこころに」という作品が大好きである。したがって、これ以上の詮索はやめておこうと思うが、詩人の名誉のためにもこれだけは言っておきたいということがあり、それは「鮎の歌」に関して、地名という、実在する固有名詞を用いたのはくだんの呪文の部分だけであるということ。

鮎の歌は正式には「合唱組曲鮎の歌(全5曲からの構成。)」の5曲目にあたる曲で、呪文の部分以外はすべて組曲全曲通して普遍的に通じる言葉、つまり日本全国どこでも当てはめて考えることができるような景色、動物、植物をうたっている。

これならば、この歌を日本全国どこでも楽しむ事が出来る。

そして日本の景色を詩で歌うという行為に関して、私の知るかぎりでは、関根栄一の右に出る者はいないと常々思っている。この大詩人が書き残してくれた詩の舞台に日常的に接し、砂防ダム音楽家として活動出来ている今の状況については大いに感謝し、幸せをかみしめていきたい。

今回、鮎の歌のことについて書こうと思ったのは、最近起こったある出来事に基づいているのだが、世の中がどのような状況に変化しようとも、愛する歌には残り続けていって欲しいと思っているところである。合唱の曲というのは決して簡単なものでは無いが、人々を感動させる力を持っている。

郷土の美しい自然を歌った愛する歌を残していくために、合唱という素晴らしい文化を残していくために、これからも沢を登り続けていこう!

いつまでも呪文を聴く事が出来るように。

吉奈温泉のシンボルスポット「登橋」
登橋から撮影。吉奈川と左上は二の小屋川。
こちらは神亀橋から覗いた吉奈川
皆沢川に入った。
皆沢川の堰堤①
皆沢川の堰堤②

呪文を唱える合唱曲〈前編〉

鮎の歌 合唱曲
きみは小学生かな?森山登真須のブログへようこそ!

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

「鮎の歌」という合唱曲がある。昔は小学校の合唱団なんかがよく歌っていた曲であったそうだ。

曲は大変美しいピアノ伴奏で始まる。〔川の流れはうたう〕と始まり、鮎の歌のタイトルよろしく、鮎の泳いでいる川を想起させる。続いて、〔夜明けの歌を うす紫の〕とつづく。そして〔川の流れはうたう〕と、また繰り返される。今度は〔川ぞいの町 霧に濡れてる山の町〕に変わる。

田舎の、里山集落の田園風景が思い浮かばれる。

呪文は突如として

呪文は突如としてはじまる。

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

実際に演奏がなされた会場で聴いた人たちは、なんだ?これ?となる。(私は経験してないが・・・。)合唱団の発表だと聞いて、体育館に集められた児童や先生方は呪文を聞き、その異様さ、異質さにびっくりして、うつむいていた顔を一様に上げる。

呪文の部分は突如として始まり、けっこう早口で歌われるため、聞き取ることが出来た者はその会場でほぼ皆無。くだんの呪文が終わったあとも、曲を聞き続けていると何度か早口言葉が出てくる。

その度に???となりながら、さらに聴いていくと、〔川をのぼることだけが 川をのぼることだけが 鮎 鮎 鮎のいのち〕とくる。

―あぁ、やっぱり鮎の歌じゃあないか!―

その後は冒頭の〔川の流れはうたう〕が再び登場したりして、最後は〔若い いのち 鮎 鮎 ああ 鮎の歌〕で曲は閉められる。

昭和50年代、60年代、平成1ケタの頃はコンクールなどでよく歌われていたらしい。

髙根神社

呪文の謎を調べる

さて、くだんの

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

であるが、漢字変換すると、

〔猫越 火の沢 船原 そして二の小屋 皆沢 吉奈 修善寺口の桂川〕
となる。

なんと伊豆地方の地名が多数!これじゃあヨソの人はわからないでしょ。しかも早口で。
また、歌う側の意図としてはちゃんと伝えているつもりでも、実際は言葉の子音がうまく響いていなかったりするから、
エッコ イノサワ ウナバラ!みたいに聞こえるはずである。

“呪文感”極まりないだろうと・・・、会場で聴いた人たちは。
ちなみに、

〔猫越〕とうたう前の段階で、
〔狩野川の本流にそそぐ流れは〕
という部分がある。かなり重要なヒントになる部分を省略してしまったが、実際のところ、こちらも呪文の部分同様早口で歌われるため、これまた聞き取りづらい。

ローマ字で読みづらかったけれど解かっていたよ。という往年の合唱ファンの方は?

私としては、ほとんどの方がこの
関根栄一作詩、湯山昭作曲「鮎の歌」
について知らなかった。ということを前提として、書かせてもらった。

さて、そんな豪華タッグ(なのですが・・・、)による名曲であるということが解ったところで、ふと疑問が浮かんでくる。これは伊豆地方の地名にかなり詳しい人でも、思うことであろう。

「猫越と船原と吉奈、桂川はわかるとして、火の沢ってなんだ?皆沢ってなんだ?二の小屋?沢?川?聞いたことねえぞ?」

狩野川。画像は鮎釣りの名所である通称「松下の瀬」。先月撮影。

火の沢について

火の沢こと火の沢川は伊豆市上船原というところにある。土肥峠越えの道、伊豆市下船原の国道136号線に「出口」三叉路から西進して入る。もしくは「月ヶ瀬IC」交差点から下船原トンネルを通って同じく西進すると、「伊豆極楽めぐり」の看板の伊豆極楽苑がある。

伊豆極楽苑を過ぎ、しばらく行くと右側に髙根神社という神社が現れる。それも過ぎてセブンイレブン天城湯ヶ島船原店を見ると、火の沢川はもうすぐそこにある。どんな沢かと言えば幅1メートルほどの非常に狭い小川を見ることが出来る。

ちなみに鮎の歌が初演、つまり一番最初に演奏されたのは昭和47年。その昭和47年当時、この火の沢川付近に何があったのかということを知るためには、火の沢川を通り過ぎて少し行けばよい。当時からその場所に存在していた「船原棧道橋」という棧道橋(道路が崖っぷちでも通行できるようにした橋)を見ることが出来る。

そしてこの船原棧道橋を基点としてその手前、奥側にある宿泊施設が「船原温泉」に属する宿になる。例えば奥側の船原館は当時もその一族の経営で同地にあったし、手前側の「山あいの宿うえだ」もその前身の旅館が当地にあった。

また、船原館よりさらに奥側には伊豆中央の巨大リゾート「船原ホテル」が当時はあった。現在はその施設の一部が日帰り温泉浴場「湯治場ほたる」として残っているが、昭和47年時はその経営年鑑のかなり後期ではあるものの、純金風呂と広大な敷地でその名を馳せた有名なリゾート施設が当地にはあったのだ。

したがって、歌の中で〔船原〕と呪文のように唱えられるが、その言葉の持つ影響力というのは昭和47年当時と現在では異なると考える。当時は〔船原〕と言っただけで多くの人々がその巨大リゾートをイメージしたに違いないはずなのだ。

呪文を唱える合唱曲〈後編〉に続く

火の沢川。国道沿いに目立つことも無くチョロチョロ流れている。
鮎の歌 合唱
土石流危険渓流の看板
火の沢川(右端)はいったん船原川に合流して狩野川へ。
船原棧道橋
船原館
旧船原ホテル裏の砂防ダムにチャレンジ。
「船原ホテル」の字を発見!
当時から残る電灯。
船原川の砂防ダム

箒原・長野

沼津市西部(柳沢)5月11日撮影

暑くなってきた。沼津市内の西部地域では田おこしも終わり、いよいよ田植えシーズンを迎える。

田おこしをした田んぼはよく乾かすことが重要だそうだ。これによって土の中にいる好気性微生物を活性化し、植物(イネ)が窒素を取り込みやすい環境を作る。専門的には乾土効果と呼んだりして、稲作をする上で非常に重要な作業として位置づけているそうだが、これが終われば今度は水張りがあり、代かきがあり、そして田植えがある。
農家の大変さが身にしみる。

全てはイネを最適な環境で育てるための努力ということであろう。稲作をうまく成功させるための理論があろうとも、それは自然条件の中で実現させていかなければならない。天気予報を見ながら、田おこしをする期間を決め、代かきをする日を決め、田植えをするその日に向けて苗を育てる。

世間が大型連休だと浮かれ、あちこちに出掛けている時、農業に向き合いプロとしてやるべき仕事をする。志が高くあったとしても相手は自然という中、何が起るか分からない中での仕事。プレッシャーを抱えながら、秋の収穫を夢見て圃場に苗に投資をし、汗水流しているのが農家だ。

農家の方々には敬意しかない。

荒原の棚田

荒原の棚田を見る。

5月9日は長野川に入った。その長野川に入る前、長野の集落内にあるジオスポットに立ち寄った。
ジオスポットの名は「荒原の棚田」。現場にはまだ比較的新しい看板が立っていた。

なぜここが“ジオ”なのかといえば、棚田となっている場所が、付近の山の火山活動で迫ってきた溶岩流によるものだということに加えて、長野川が運んだ土砂によって出来たものだからだという。自然活動の中で偶然的に作られた土台の上に、棚田はあるのだと看板は解説している。

ジオという自然遺産のその上に乗っかるかたちで、棚田という人工物が存在しているということが分かったが、そのことをよくよく考えればこれは非常に興味深い。ジオスポットとして認定されたもののそのほとんどは、本来人間の手が一切介入していない“自然のありのまま”というような条件があるような気がして、ここはいいの?と思ってしまうのである。

棚田という農業の舞台である以上、ある時は水の張られた田植え直後の状態であったり、ある時はたわわに実った稲穂が垂れている状態であったり、ある時は稲刈りが終わった刈りあとの状態であったりと様々に変化する。様々に変化するのはイネという植物の出来事だからしょうがないでしょう。と言っても、それは多分な人的介入を経ての結果なはずだ。

台風で畦(あぜ)が壊されたりしたら?どうする?直すのはアリ?

いろいろと疑問が出てくる。とまぁ、そんな風にいろいろツッコんで考えている自分自身をふと顧みてみると、この場所の持っている素晴らしさになんと気がついてしまう。ジオスポットというのは得てして地学などの専門家向けの解説になってしまう事が多い。

もともと火山とか岩とかそういった分野に興味を引かれている人にとっては、非常に楽しい講座になると思うのだが、ほとんどの一般市民にとっては無関心で退屈なものになりがちである。棚田というものは水田の一種であるし、それは日本中にあるものだし、なによりそこは米という、ご飯という「食べ物」を作っている舞台だからである。 

棚田の基礎となった台地は溶岩や堆積土砂なのだが、その上に棚田がワンクッション置かれたことでずいぶんと、親しみやすい、引きつけられやすいジオの解説となった。おかげでかなりすんなりと入ってくる形で勉強することができた。ありがとう!棚田で良かった。

荒原の棚田。5月9日撮影。

長野川で水温を測る

そんな荒原の棚田の画像を貼ってみて、これをご覧になり、おわかりいただけたと思うが、もうすでに水張りも、代かきも、田植えも当地は完了した状態であった。地理院地図によればこの場所の標高はちょうど300メートルほど。一方、沼津市西部は画像の柳沢もそうであるし、海抜にして10メートルにも満たないところが多い。

緯度は伊豆半島に属する伊豆市湯ヶ島長野の方が低いが、それだけの標高差また日照時間から考えれば、圧倒的に沼津市西部の方が暖かい気候だということがわかる。単純に考えて、一早く春を迎えた沼津の方こそ一早く田植えが行われるものだと考えそうなところであるが、そうではないあたりに米作りの奥深さが感じられる。

水温はどうか?水温は(もう田植えの終わっていた)5月9日に長野川で測ってみたところ、12℃ほどであった。なぜ長野川で計ったかと言えば、この地区の棚田はじめ、水田に使われている水は長野川から引き込んだ水だからである。

長野の集落よりも一段上に上がったところには「箒原」という集落がある。その箒原に堤高3メートルほどの低い堰堤があって、その堰堤が取水堰になって水を取り込んでいる。

箒原・長野地区は稲作が盛んな地域である。荒原の棚田以外にも地区の広い範囲で稲作が行われていることは実際に当地に行ってみれば分かることだが、その箒原・長野一帯の棚田、水田に水を供給しているのが長野川であり、その起点となるのが箒原の堰堤や長野第3砂防ダムなのだ。5月9日は現地で、砂防と砂防以外の目的で活躍する堤体を見てきた。

水温を測る。
取水堰になっている堰堤。滞留土砂も見られる。
半開きなのは流木を噛まないようにするためか?
農業用水で出来た滝。(画像中央)
余分な水は排水口を通じて長野川に戻る。長野橋上流付近。

美しき村

箒原・長野にいつも行って思うのは、この地域が大変に水をうまく利用している地区だということ。長野川から引き込んだ水で稲作をはじめとした農業を行っている。他の地域でもそういう傾向は見られるが、この地区の場合は少し違う気がする。

何が違うのかと言えば、他の地区の場合、川から水を引き込んでいるその多くは「個人」を単位としているケースがほとんどであるような気がする。川から引き込んだ水の配管を追いかけていくと、一軒のお宅の庭やため池にたどり着くことが出来る。

「個人」の生活のために敷設された設備をこれまで見てきたということだが、この箒原・長野については「集落」単位で大々的に利用する目的をもって水を引き込んでいる。集落としてどうすれば皆がよりよい豊かな生活を送ることが出来るかということを考え、共同して生きている。ここにいつも行くたび、そんな当地の人々の気持ちを感じずにはいられない。

「荒原の棚田」というのは、ただの棚田にあらずそんな背景を含んでいる。この棚田が人々の共同の象徴としてここにあり続けてくれるのは、傍目に見ても大変に美しいことだ。今までも、そしてこれからも永遠(とわ)に美しくあり続ける箒原・長野であってほしいものである。

箒原集落内の棚田&ワサビ田
堤高15.0mは副堤を含めた値。
アブラチャン
ケヤキ
カヤ
シロダモ
副堤だけでもかなり高い。
こちらは箒原につづく配管
長野第三砂防ダム

大好き河津町!vol.8

フードストアあおき(こちらは河津店)

晴好雨奇(せいこううき)という言葉がある。

〔晴天でも雨天でもすばらしい景色のこと。自然の眺めが晴天には美しく、一方、雨が降ったら降ったで素晴らしいこと。▽「奇」は普通とは違ってすぐれている意。「水光瀲※艶<れんえん>として晴れまさに好く、山色空濛<くうもう>として雨も亦<また>奇なり」の略。「雨奇晴好<うきせいこう>」ともいう。三省堂 新明解四字熟語辞典より※艶の字はさんずいが付く。〕

中国の蘇軾(そしょく)の詩が語源だそうだが、なんと素晴らしい言葉であろうか。晴れた日を美しいと言い、雨の日を素晴らしいという。


5月4日は雨が降った。それより以前の週間天気予報の段階から当日は雨予報。晴れてくれよと願ってもこれだけはどうにもならない。自然相手の中で楽しむ砂防ダムの音楽において天気の影響というのは計り知れない。晴れた日には太陽の光が水面を照らす。そこで山の木々や斜面が真っ黒な影を落とし、その中で歌うのだ。

いつだって晴れてくれていたほうが、いいに決まっている!

この日の出発前もそう思っていたのだった。

おい、何しに来たんだ?(谷津のネコさまより。)

どうにもならない。と言えば、

どうにもならないと言えば、やっぱり最近流行のアレ。
人と接触するな!というのだからアウトドアーマン、旅行者は堪まったものでは無い。
買い物ひとつ取ったって河津町民がするというのならまだしも、部外者となる者が安易にその中に立ち入るべきでは無いと思った。

したがって今回の砂防ダム行脚の食料調達は、自宅のある沼津市内で行うことにした。行うことにした・・・のだが、本来行こうと思っていた店がチェーンストアであったため、店舗を別にして買うことに。店の名前はフードストアあおき沼津店。なんと河津町出身のスーパーマーケットである。

創業は昭和21年、当時の賀茂郡下河津村にて。設立は昭和32年、会社名は株式会社青木商店。現在は沼津市大岡に本社があり、社名は株式会社あおき。静岡県下に8店舗、神奈川県・東京都にそれぞれ2店舗と1店舗ストアを構える。下田港や沼津港から直送の魚介をはじめ、農業県である静岡の県内産青果の取り扱いも多い。

食肉部門においては、本場ドイツで修行を積んだ担当者がソーセージを手掛けるほか、同じく酒類販売ではワイン担当が直接フランスまで買い付けに赴くなど「食」に対するこだわりは強く、各部門専門店並みの品揃えで珍種も多数。キャッチフレーズは「食文化のパラダイス」。

総菜コーナーには、パラダイス名物の一つに数えられる美味いカツ丼がある。今日もカツ丼にしようかと思ったが、それより気の向いたサバ味噌煮弁当にした。弁当と晩ご飯用の食材を買い、店を出たのが午前10時すぎのことだった。

フードストアあおき(こちらは沼津店)

自宅を再出発

晩ご飯用の食材を置きにいったん自宅に戻る。それにしても、世の中がこんな状態である中にあって、しかしながら営業を続けているスーパーマーケットには本当に頭が下がる。店が閉まってしまったら困るというのはわれわれ買う側の人間の都合であって、本当は営業したくないという気持ちのなか働いている方もいるかもしれない。

やはり、旅行者などという立場で気軽に接するべきでは無いのだなと。

午前10時30分に自宅を再出発し、河津町を目指す。もうこんな時間になってしまった。別に急ぐ必要も無かろう。

国道414号線を静浦港側から長岡北ICへ抜け、伊豆縦貫道に乗ったあと、大仁南ICで降りる。横瀬の信号まで進んだのち、修善寺橋を渡り、修善寺中学前の鮎見橋から県道349号線をひたすら南進し、市山の信号まで行けば後はいつも通り。
こうすることで2つの料金所を回避して進めた。今は料金所の徴収係にさえ接するべきでない時期なのだ。

今日はカツ丼にせず

小縄地川

午後1時、河津町縄地の小縄地川に入った。依然として雨が降っている。やる気も無く、しかし腹は減ってきたので午前中買ったサバ味噌煮弁当をいただく。

美味い。
食べたい時に食べたいものを食べることができる幸せをかみしめた。

あぁ、

歌いたい時に歌いたいものを歌わなきゃなぁ・・・。

無理に歌ってもしょうが無い。こんな時は自分の中で歌いたいという気持ちが沸いてくるのをひたすら待ち続ける。
堤体を川を
流れる水の音を聞きながら、ただひたすら待ち続ける。

雨が降っているのが気になる。これではそもそも外に立っているということが出来ないではないか。
気分を変えるため、場所を移すことにした。

次に選んだのは「谷津川」。

釣り人の言い訳

午後3時、谷津川の「前城野沢」床固工群に到着。雨が小降りになってきた。車から外に出たものの依然として歌いたいという気持ちが出てこない。
また移動するか?

まるで釣りをしているようである。釣れなければ、移動!みたいなノリ。釣れないのを場所のせいにして、自らの実力に向き合おうとしていない。一流の音楽家だったとすればその辺もちゃんとマネジメント出来ているはずだ。

釣りは魚という相手がいてその相手を釣るスポーツ。音楽は自分という相手がいてその相手を釣るスポーツ(のようなもの)だと思っている。自然界の中で自分自身が歌うことが出来るように、誘い出して、食いつかせてやればいい。最終的には、自分自身でも気がついていない心の奥底にある気持ちを引き出す(吐き出す)ことでストレス解消を成功させようとしているのだ。

駐車した車のボンネットに臀部を寄りかからせながら、ただぼんやりとしていた。耳には鳥の鳴き声と床固工を落ちていく水の音と、時折のタイミングで近くに敷かれた伊豆急行の線路を走る電車の音が聞こえる。

午後4時、床固工をピタピタと落ちていく水の音に効果があったのか、ようやく歌おうという気持ちが沸いてきた。

早速準備を済ませ、入渓する。と、ちょっと悪企み。
―さっきまでその気は無かったんだろ~―
と同定作業を自分自身に命じる。ここでは歌いたくなっているのを我慢して葉っぱを調べる。

しばしの同定作業の後、ようやくスピーカーの電源を入れた。選んだのはシューベルト作曲のDie schöne Müllerinよりその10曲目、Tränenregen(涙の雨)。冬にしか歌わないと決めていたDie schöne Müllerinだが、掟を破って登場させた。現場に降り続いた雨がこの曲を誘ったのだ。

決まりを破ったことはいけないと思う反面、こんな素敵な曲が自然発生的に歌いたくなったことについては大喜び。
Tränenregenをたったの2回。時間にして10分弱。わざわざ、片道60キロ以上も走ってきた現場で歌ったのはこれだけ。

これだけだけどすごい名曲。幸せすぎる・・・。

なんとか自分の気持ちをうまく誘い出すことが出来た。雨という条件は最大のネックになるだろうと予想していたが、その辺も最終的にはむしろプラスに働いてくれて終われ、良かった。

晴好雨奇。

この言葉を実感することのできた今回の砂防ダム行脚となった。食にも歌にも美味い、幸せな体験をさせてもらったのだった。

前城野沢へはネコ様のお宅を過ぎて右折。
指定地看板
ヤマグワ
マルバウツギ
立ち位置の背後にはクマノミズキの倒木
タニウツギ(葉裏)
副堤っぽいが一つの床固工
堤体前の様子。