前日準備

今回は宿舎での前日準備からお届けする。

5月11日、午後7時。

午前中は宇久須川でゲーム、午後は西伊豆町堂ヶ島での観光を終え、宿舎に帰ってきたところ。

夕食と入浴もそこそこに部屋にもどる。

あすは伊豆市猫越川上流、河原小屋沢への入渓を予定している。それでは床に就くまえに前日準備ということで、ツールの確認を行うこととした。

普段、使用しているツール。by森山登真須

厚底シューズのように

ツールについてはおおよそ画像のとおり。

ウエーダー、レインジャケット、グローブなどのアパレルからフローティングベスト、ヘルメットなどの保護具。登山用ポールは歩行の補助に。他、現場でのコンディションを把握するための計器類、ICレコーダー、ビデオカメラ、図鑑、熊鈴、ヘッドライト、ホイッスル、緊急時に使うものなど。

砂防ダム等堤体類に到着すれば、お待ちかねの歌が待っている。堤体前にてしっかり声が入れられるようにするための補助器具、自作メガホンも忘れてはならない。

メガホンの収納にはテニスラケットのバッグを流用している。バッグはワンショルダー(片方の肩にかけるタイプ)で外装がナイロン製のもの。ワンショルダーの利点はヤブ漕ぎ時、樹木の回避能力に優れていること。

倒木等をくぐり抜けるとき、背中側にある収納部分をわき腹側にスライドすることで背中側のクリアランスを大きく確保できる。チェストバッグを背負っていては引っかかってしまって抜けられないような低い空間も、スルリと抜け進むことができる。

デメリットとしては肩掛けベルトが一本になるため、収納物による荷重の分散性能に劣るというところ。これについては、とにかく余計なものをなるべく持ち込まないことで解決を図っていきたい。フィールドでの経験をもとに、持ち込む収納物の最適化を日々進めている。

また、収納については上半身に着るフローティングベストも大きな役割を果たす。こちらは本来釣り用に開発されたもので、釣りの仕掛けを収納するためのポケットが複数個ついている。

フローティングベストは入渓後つねに身に着けている、さらに手の届くところにポケットが付いているという特性があるため、すぐに取り出して使いたいもの、使用頻度が高いものの収納に向いている。風速計や、堤体との距離を測ったりするのに必要なレーザー距離計については、こちらに入れておくのが便利だ。

収納力という性能、水に浮くという性能、固いものに当たった時に衝撃から守るという性能。いずれをとっても、フローティングベストを着ることの優位性は大きい。

従来言われてきた煩わしさ。独特の厚地によって足もとの視界が制限されるとか、夏期における暑苦しさといった理由から渓流師にはほとんど相手にされてこなかったフローティングベストであるが、自身は将来への期待も含めてこれを積極的に利用させてもらっている。

いつかはナイキ社が開発した厚底シューズのように、重量増、でも着用することによって歌い手のパフォーマンスが上がるようなベストの登場を待ち望んでいる。その待望の日を迎えるために、今から質量だけでも慣れておくのだという期待も込めて、このちょっとズッシリ詰め込んだ相棒を身に付け今日もまた渓に立ち込んでいる。

フローティングベスト。パーソナル・フローテーション・デバイス(PFD)とも。
計器類を持ち込む。他のアウトドア系遊びと大きく異なる点だ。
ICレコーダーと歌詞の書かれたカード。歌詞を忘れた時に困らないように。
高倍率のビデオカメラと図鑑。
緊急時に使うもの。右はポイズンリムーバー。

仁科峠を越える

翌5月12日午前6時半。宿舎となった西伊豆クリスタルビューホテルを出発。まずは昨日見て回ることの出来なかった賀茂郡西伊豆町宇久須の各所を巡ることに。

午前7時、まずは宇久須港すぐにある改築されたばかりの公衆トイレを見学&初利用。コンクリートの建屋で堅牢そうな頼もしいものが出来上がった。

午前7時10分、外観のみであるが「AGCミネラル株式会社伊豆事業所」の社屋を見学。風格滲む木造の社屋は、かつての国産板ガラスマテリアルの重要生産拠点。地元では旧社名である東海工業の名で親しまれている。

午前7時20分、黄金崎クリスタルパークまえを通過。宇久須隧道をくぐって黄金崎に向かう。

午前7時半、黄金崎近く「こがねすと駐車場」に到着。駿河湾の海に突き出る「馬ロック」や新しく完成したハートのモニュメントを見て過ごした。

午前8時には宇久須神社に到着。拝殿ではつるし雛が出迎えてくれた。もう少し暑くなった頃には地元特産のガラス風鈴が吊されることであろう。

午前8時10分、参拝を終えふたたび車に乗り込む。静岡県道410号線に沿って山を登り、仁科峠を目指す。

午前9時5分、仁科峠の少し手前「西天城高原牧場の家」にて遅めの朝食。朝食後は牧場の牛を見にいったりして過ごした。

午前10時15分に仁科峠(標高897メートル)を越えた。その仁科峠からは1.2キロ、標高にしておよそ120メートルほど下がると風早峠の丁字路。右折し、伊豆市湯ヶ島方面へ。

午前11時半、伊豆市湯ヶ島「持越川」に架かる水抜橋西詰丁字路へ。河原小屋沢へは水抜橋を渡らず直進となるが、トイレに行きたくなったため左折し水抜橋を渡る。そのまま1.7キロほど走って「天城ほたる館」まえ。鍵が掛かっているんじゃないかと心配された入口ドアは幸いにも施錠されておらず、無事に用をたすことができた。来月には観光客で本格稼働となるであろうトイレをありがたく使わせてもらった。

午前11時50分に水抜橋に戻り、進路を修正して河原小屋沢方面へ。丁字路より2.5キロほど進んで猫越集落最南端の民家を過ぎると、道はそのまま林間へ。林間に入ってすぐのところには通行止めの看板が現れ、車はその通行止め看板の手前、道幅の広くなったところに駐車した。

宇久須港
改築されたばかりの公衆トイレ
AGCミネラル株式会社伊豆事業所
黄金崎クリスタルパーク
黄金崎に向かう。
こがねすと駐車場まえ
馬ロック
仁科峠に向かう道。(静岡県道410号線)
宇久須神社
つるし雛。宇久須神社拝殿にて。
西天城高原牧場の家
牧場の家のなか
朝食。チーズ焼きカレー
朝食後の散歩
牧場の牛を見にいった。
宇久須の街並み。牧場の家から
仁科峠。手前側が賀茂郡西伊豆町、奥が伊豆市。

すぐにスタートができる

午後0時10分、車から降りて入渓の準備。

前日、宿舎にてセッティング済みのフローティングベストを身に付ける。フローティングベストのポケット、自作メガホンを入れたバッグにすべてが収納してあるので、それぞれ着用する&背負うことですぐにスタートができる。

午後0時25分、歩きの行程をスタート。目的地となる堤体「洞川No.9玉石コンクリート堰堤」は堤体のすぐ横に猫越支線林道が走っているため渓行区間はほぼゼロ。

午後0時35分に猫越川橋を通過。

午後0時45分に猫越支線林道上、目的の堤体すぐ横に到着。堤体本体すぐ下流の傾斜を慎重に降り、ようやく堤体前にたどり着いたのが午後0時55分のこと。

猫越川橋
猫越支線林道
ジャケツイバラ
コガクウツギ
マルバウツギ
クマノミズキ
堤体すぐ横に到着。

白泡の壁

前日の宇久須川同様、やはりこちらも春の堤体といった感じで水がたっぷりと流れている。

この水は三蓋山、長沢頭、手引頭といった山稜と、その支尾根を頂とする山からのものであるという。

地形図で見れば猫のひたい程度の面積である。大した範囲に見えないが、やはり数多の谷から供給され、持ちうる限りの集合体となった水はとめどなく行き、あるときはこの場所のように大きな落差を生じさせながら下流へとつづく。

大きな落差には光が交錯し、白泡の壁を作る。

壁は輝く。

渓畔林の生み出す暗がりの中からその白泡の壁を見ていると、その輝きはよりいっそう眩しいものになる。

眩しいものに対する思い。

興奮か。
不快か。
悲しみか。
平凡か。

自身は興奮していた。

メガホンをセットし声を入れてみる。

白泡の壁

歌ってみてさらに興奮が高まる

鳴る。歌ってみてさらに興奮が高まる。

歌っていたのはメンデルスゾーン。34の2番「Auf flügeln des Gesanges」。

Auf flügeln des Gesangesは冒頭の2ブロックだけ歌う。

Auf flügeln des Gesanges, Herzliebchen, trag ich dich fort,
Fort nach den fluren des Ganges, Dort weiß ich den schönsten Ort.まで。

この2ブロックだけを歌う。一回一回とくにこれといって歌い方を変えるわけでもない。しかし、立ち位置を変える。たったこれだけのことで響きが変わる。

あっちに行ったりこっちに行ったり。場所を変えながら声を入れていく作業を行う。

声を入れていく作業。それは遊び。

とにかく、まず堤体前に着いたらメガホンをセットして歌ってみる。立ち位置を変えればそれだけで響きが変化するからいろいろな場所で試してみる。遊びが最優先で、写真を撮ったり、計器類を用いて測ったりするのは後回しにしている。

堤体前で遊ぶのが一段落し、ようやくここでフローティングベストのポケットに手をかける。取り出して扱うのは堤体前のコンディションを計測する計器類。

計測を行う。計測・・・、これもまた遊びの一種。計測をして遊ぶ。

堤体を目標物としていろいろ立ち位置を変えてみる。
河原小屋沢の流れ
銘板
206度。南南西で午後型。
この距離は参考までに。
0.6メートル/秒の微風

最高の時間

結局この日は午後5時まで堤体前で過ごした。

通い慣れた伊豆の銘堤はいつもと変わらず最高の時間を与えてくれた。そして落葉樹の葉が出揃うこの5月上旬の期間は、他のシーズンでは味わえない強大な魅力に満ちている。

日照時間が長くなり、精神面に不調をきたす方もまた多いであろうこのシーズン。山へ出かけ、木々でつくられた暗がりの下で過ごしてみるのはいかがであろうか?木の下の暗がりという非日常空間の中で時間を過ごし、しかる後には新たな気持ちとともに社会生活へ戻ってゆくことが出来るかもしれない。

木は、山は、川は、いつもその場所で待っていてくれる。遠慮することは無いであろう。

そこに展開される自然物の恵みを受けながら、本当はもっともっと生きやすい世の中なのだということを知って、心身ともに健康に生きていくこと。それが多くの人に自由に出来るような時代の到来に期待している。

洞川No.9玉石コンクリート堰堤
木々が風でユラユラ揺れているときがチャンス!
コナラ
ミズメ
リョウブ
アカガシ
全天を覆う渓畔林

ノーキャスト、ノーバイト

宇久須港

5月11日、朝5時を迎えた。場所は賀茂郡西伊豆町宇久須。

暁の海。海面を撫でるように吹く風とさざ波。

ノーキャスト、ノーバイト。訳せば、

竿は振らなかった。魚は食いつかなかった。

といったところか?

夜明け前、ここまで来ていながら釣りをしなかったのは海の状況がさほど芳しくなかったため。

ちょっと荒れ気味なくらいがよく釣れる。

釣り人であった頃からの経験則は、にわかを引っ込み思案にさせた。

余計な考えだったかもしれない。

やってみればよかったかもしれない。釣れなくてもいいから。あの玉の鉄のゴロゴロいうプラスチックの塊を思い切り海に投げ入れてみれば、それだけで充分気持ちがスッキリしたかもしれない・・・。

エサ代は掛からないはずだ。なにも失うものは無い。だが、どうしてもこの日はルアーを投じる気にはなれなかった。

べた凪の海を眺めつつコンビニのコーヒーをすする。

階段をトボトボ、
公園へ。
ここは浜海浜公園。
時計を見にいく
静かな朝。

赤川との合流点へ

海がダメとも川があろうと気持ちを切り替える。

午前5時半、交通量もまばらな国道136号線を歩き、新宇久須橋より宇久須川を見に行く。

異常なし。川底は白く。

午前6時、浜海浜公園駐車場にもどり車にのりこむ。駐車場を出て、宇久須南信号交差点より静岡県道410号線を東へ。

午前6時10分、宇久須川にかかる清水橋ちかくにて停車。再度、川のチェックを行う。

異常なし。川底は白く。

ここは、伊豆半島の隠れジオスポット。清水橋ともう一つ上流側には神田(じんでん)橋。川底が白くなっているのは宇久須川と支流である赤川の水が合流したあたりから。

宇久須川の微かに濁った水に、川石・護岸ともに赤錆びだらけの赤川の水が加わると、その地点から下流側は川底が白く変色している。

見えているのは水酸化アルミニウムの沈殿物。

最も顕著に色付いているのは合流点付近で、以降下流方向は帯状に白い。帯は合流点よりおよそ2.5キロにわたって最後、宇久須川の河口へ至るまでの区間およんでいる。

宇久須川の支流、赤川の上流にはかつて珪石を採掘する鉱山があった。おもに第二次大戦終戦後には国産板ガラスの原料として、昭和40年以降は軽量気泡コンクリート(ALC)の骨材原料として産地の珪石は利用されてきた。

国家の発展に大きく寄与してきた険阻の地下資源採掘である。結果、ここでは酸性水の流出という現象が起きた。(もちろんこれは採掘前より先天的な現象として、すでに存在していたということも考えられる。)では、それがどのように環境に作用したのか?といったことについては今後、経過観察を続けていかなければならない。

最終的に宇久須川の流れ出る西伊豆沿岸地域は魚類のほかイセエビ、アワビ、トコブシ、サザエ、テングサ等の漁が古より行われてきた。これは時系列にすれば珪石鉱山が開業する以前から開業して以降、そして現在にいたるまでのことであり、さらに広く海域を見わたせば最深部2500メートルを誇る駿河湾の海では深海魚漁が、やはり今も昔も行われている。

狭い水域であるほど影響力は大きいであろう。前者の西伊豆沿岸地域とは沼津市戸田から賀茂郡松崎町あたりまでの範囲について。

これまでの堤体さがしにおいては赤川同様、微酸性~弱酸性の川・沢は伊豆半島内で他にも多数見てきており、やはり川底が赤や白に変色している場所もこの目で確認している。

焦点として捉えるべきは宇久須川だけではなくさらに多い。

植生などは川の近く、渓畔林を構成する樹木において異常現象が見られたという記憶はない。シカも相手にしないアセビ、ヒサカキ、ヤブツバキなどは一年中いつでも良い樹勢を見せてくれ、こういった植物は特殊な水のなかに含まれる微量元素を補給しながらむしろ元気にやっているのだと感じるほどである。

釣りの分野では渓流師は悪水として嫌う人が多いが、自身含めた海釣り師はむしろこういった川の近辺でいい思いをすることが多い。どういうわけか降雨時に河口より大水が出たタイミングにおいて、よく釣れるというケースに出くわすのだ。

伊豆半島全体として赤川のような特殊な川が多いため、それがあらゆる生物にどのように影響を与えているのか?ということについては今後も注視し続けていかなければならないだろう。

隠れジオスポットへ
清水橋より。
右の太い川が宇久須川。中央、細い川が赤川。
両者の流れが混じると川底が白くなる。

入渓点へ

午前6時35分、ふたたび車に乗り込み発車。宇久須川に沿うかたちで静岡県道410号線を東進する。

午前6時40分、竜神峡ます釣り場まえを通過。

午前6時45分、静岡県道410号線上、入渓点至近地点に到着。道幅の広くなったところに車を駐車し、入渓の準備。

午前6時55分、準備完了。まずは入渓点の目印となる看板の撮影に向かう。

二級河川宇久須川起点静岡県。

看板を画像に収める。この看板のすぐ横に堤高6メートルほどの堤体があり、その上流堆積地より入渓する。

午前7時、遡行を開始。ソフトボール~バレーボール大の石が敷かれた渓をのぼってゆく。ところどころには幼稚園児でも座れそうな石椅子が。ちょっと一休み出来そうだ。

堆積地をこえれば渓畔林の多い区間へ。スダジイの高木にフジ、テイカカズラが絡む暗い渓畔林の下ではしっかりと水が流れている。水深にしてくるぶし上程度の水を蹴りながら遡行をつづけた。

午前7時25分、目的の堤体に到着。(堤体名不明。)

入渓点の目印。
入渓点よりすこし上流地点
アカメガシワ
渓畔林に隠れながら遡行する。
あと少し・・・。
堤体前へ。

春の堤体

水はしっかりと流れ、いかにも春の堤体といった感じである。放水路天端上を流れる水はしっかりした厚みを持っており、その厚みある水を朝の太陽が照らす。

主堤より湛水する水は水褥池へ落ち、水褥池につづいて副堤から落ちた先の護床工区間は小池のようになる。さらに大型重機タイヤサイズの石で構成された荒瀬へと流れはつづき、荒瀬から推定1メートル以上はあろうかという深く掘られた淵に向かって水はダイブしている。

好感触の気持ちを抱くのは、堤体前におけるノイズの質について。普段、接する機会が多いのは、川石に水が衝突することによって発生するタイプのノイズ。

今まさに接しているこの堤体前のノイズも落ちこみによる縦方向への衝突が見られるが、異なっているのはその音ひとつひとつの小粒感。細かさ。

細かなノイズに集約された堤体前は声を入れるという行為を試みる前段階から、すでにこれから楽しいゲームが待っているということを予感させてくれる。

堤体は84度。東北東。
風は微風。
距離は75.6ヤード。
頭上は覆う渓畔林

声を入れてみる

自作メガホンをセットし、声を入れてみる。

期待していたとおり声が良い感じで響いている。堤体前を支配するノイズがきめ細かく、そのきめ細かく迫ってくるノイズに対して声が混じり合う感覚が非常に心地よい。

水が落下したときに発生するノイズに対して、人間の声をかき混ぜていくという行為がこれほどまでに心地よいのは、その混じり合う音同士の攪拌が非常にスムーズに行われているからであろう。

豊富な落水に起因する空気の動きも感じられ、微風は声をよく運んでくれている。渓畔林の葉によって形成された影の下に入り、歌い手自身が音に集中できていることも大きい。

自然体にしていながら音を聞こうとする体勢になることが出来、結果、響きに対する感度が上がるという好循環に陥っていた。

ハゼノキ
コナラ
高いところにあるヤブニッケイは見上げる。
右岸側
左岸側
ノイズがきめ細かい。

つくられた空間の中で

結局、この日は午前11まで堤体前で過ごした。

経験則・・・、であろうか?堤体前の環境は砂防ダム音楽家に歌う行為そのものを誘った。

その質の良さ。まだ一日の半分も過ごしていない者を歌へと駆り立てる良質な堤体前のノイズ。

正直、堤体前に到達した段階で歌おうとする気がどれほどあったのか?ということについては記憶が無いが、結果的に声を入れるという行為が出来たというについて、また、その最中に感じられた非常に心地よい、力まなくてもいいという感覚は、自然界からの誘いをうまく受け取ることが出来た結果なのではないかと考えている。

他動的につくられた空間の中で自分自身がやったことといえば、ノイズに対してただただ声を合わせにいったということだけ。

歌うことが出来て、歌い手自身の心の中に沈んでいるものを外に放出することが出来、非常に心地よい感覚に包まれながら遊べた。

最高の朝を満喫することができた。

良質なノイズに声を合わせていく。

急きょ変更!

富士川クラフトパーク

5月2日午前6時。場所は山梨県南巨摩郡身延町「富士川クラフトパーク」。

長いゆるやかな階段を下りてネモフィラ畑に向かう。

階段の中央には下の噴水へとつづく水路。水は流れていない。

夜間は噴水を回すモーターを止めているようである。夜が明けた現在も稼働にはまだ時間が早いようで、御影石の並べられた水路は薄く表面が濡れているだけだ。

そういえば昨日は雨が降ったなぁ・・・。

本日は雨後のゲームである。川の状態が心配だ。本日入る予定の下部川は富士川を挟んで対岸側にある。

目の前にある噴水のモーターも、川の水量も自らの手でコントロールすることはできない。さらにいえば堤体の方角も、太陽の位置も。歌い手である人間にとって出来ることといえば、その時期、その時間を狙って入渓することで、太陽をある程度思い通りの方向に構えたり、渓畔林の生育具合がある程度予測できたりするくらいだ。

自分が何かを変えるんじゃなくて、相手が変わるからそれに合わせて自分が動くということ。

便利な世の中にあって、敢えて不便なやり方を選んでいる。常に受け身の立場で動くその一連の行動は一見、不幸で無駄の多いことのように思えるかもしれないが、成るようにしか成らないという“結果”に応じてリアクションしているのは結局のところ疲れない。

受動的であるということは楽なのである。

演奏施設である堤体前についてなにか作るという思考はない。作るということはエネルギーを使うこと。

土木職人がたまたまそこに置いた石があり、流れてきて自然に置かれた石がそこにあり、たまたまその場所に散布されて根付いた植物が生えていたり、その植物に誘われてどこからかやってきた動物が息付いている。

偶然その場所に出来たものを見に行く遊びをしている。

そう考えると、現場で起きていることをあまりにも考えすぎるのは良くないことなのかもしれない。

肩の力が抜けてきた。よし、今日も行ってみよう。

水の流れていない水路。
メタセコイアの葉
触ってみる。
ツツジのなかま
ひとけの無い静かな朝の公園
ネモフィラ畑

毛無山登山口駐車場へ

午前8時半、富士川クラフトパーク駐車場を出発。「上沢」信号にて国道52号線を横切って東進。富士川にかかる富山橋をわたり直後にあらわれる波高島トンネルをくぐる。

午前8時40分、波高島トンネルを抜けて800メートルほど走ると右手側に橋。橋の名称は「いで湯橋」。このいで湯橋をわたると道は下部温泉郷に入った。直進し、JR身延線と交差する下部踏切をわたってすぐ左にある下部温泉駅に立ち寄る。

駅前駐車場に車を停め、駅舎の離れにあるトイレへ。トイレを出ると下部川のチェックに向かう。

午前8時50分、下部温泉駅近くの「ふれあい橋」より下部川をのぞき込む。前日の雨による増水は・・・?

どうやら大丈夫そう。水はいたってクリアーで、しかも荒れている様子も無い。ホッと胸をなでおろす。ふれあい橋を完全にわたりきり、下部リバーサイドパークと湯之奥金山博物館の足湯をすこし見てから早足で下部温泉駅前にもどった。

ふたたび車に乗り込み出発。

道なりに東進し、神泉橋、善隣橋をわたりながら下部温泉街を抜けきる。

午前9時半に身延町湯之奥「門西家住宅」付近を通過。湯之奥集落の最終民家も越え、さらに奥へ奥へと車を走らせ午前10時05分、毛無山登山口駐車場に到着した。

下部踏切と下部温泉駅
ふれあい橋からの下部川
下部温泉街をぬける。
イチハツの花
冬季閉鎖のゲートを越える。
奥へ奥へとすすむ。
毛無山登山口駐車場

スタート直後は寒い?!

午前10時05分、毛無山登山口駐車場のすぐわきを流れている下部川の様子を再度チェック。さきほど確認した下流部同様、やはり荒れている様子は無い。入渓の準備に取りかかる。

上半身はTシャツの上にレインジャケット。その上にフローティングベスト。下半身はスラックスを履いたまま上にウエストハイウエーダー。

5月上旬、標高900メートルという条件下、本日はこのシステムで臨む。気温は15.5度ほどあるものの、ときおり冷たい風がピューッと吹くタイミングにおいては寒い。

入渓前の準備段階で寒さに不快感を覚えたところであるが、いったん歩きはじめれば丁度よくなることであろう。スタート直後からは渓行にてダラダラ登りほどの傾斜を上がり続けていく行程が待っている。堤体前で過ごすときに着る長袖シャツやフリースはバッグの中に収納した。

午前10時半、毛無山登山口駐車場のガードレールの切れ目から下部川の河原に降りる。ここが本日の入渓点。入渓点直後には4~5メートルクラスの堰堤を確認。右岸側から堰堤を巻いて堆積地に上がる。

さらに100メートルほど遡行してまた堰堤。今度はバットレスタイプの鋼製堰堤で高さは4~5メートルほど。これも巻いてさらに100メートルでまたしてもバットレスタイプの堰堤。

以降、バットレスタイプ・重力コンクリートの堰堤が入れ替わり立ち替わり出現し、そのたびに右岸側・左岸側いずれか巻きやすそうな方向を選んで一つ一つ越えていった。

堰堤は全部で9基越えた。ようやくの目的地は10基目の堤体。到着時刻に腕時計は正午を示していた。

入渓点より。いきなりの堰堤越え。
堆積地を歩く。
数えて8基目の重力コンクリート堰堤。
スッポンダケのなかま。
目的の堤体に着いた。

ミスが発覚・・・。

堤体にたどり着いて、まず真っ先に探したもの・・・。

太陽。

まずは太陽がどこにあるかと確認に入る。上を見上げ、分厚い雲が払われるそのときを待つ。

自分自身が犯してしまった大いなるミスに気がつくのに、さほど時間は掛からなかった。

分厚い雲が薄くなってきて、強く光る一点がぼやけながらも徐々に把握できるようになってきたときのことだった。

ん?

なんと太陽が現れたのは、堤体に向かって正対したときで右斜め後方。程度としては完全に背中側とまではいかないが、右手を水平方向に伸ばしてそのいちばん後ろに下げられるくらいの角度で後方にある。

ガーン!!!

原因は過去にこの場所に訪れたときのデータの読み間違え。148度、南南東の堤体を間違えて南南西であると誤認。南南東の堤体でベストタイムということを考えれば、この堤体はまぎれもなく午前型の堤体である。

もうとっくに左岸側に移ってしまった太陽を見ながら、言葉では言い表せない気持ちになった。

冒頭の話しではないが、太陽も堤体本体も移動式のセットであれば自分自身の好きなように動かして、光の位置関係を調整することができる。しかし、現実にそんなことは出来ないわけで、今このシチュエーションにおいて自身がやれることといえば、太陽を背負った向きのまま歌うことだ。

太陽が堤体の水裏に反射して出来た非常に明るい空間の中で、多大なる違和感とともに歌えということか。

う~ん。

夕方・・・、夕方の暗がりを待とう・・・。

正午過ぎに再計測。コンパスが太陽光により輝いてしまっている。
太陽光が反射体にあたると空間が明るくなる。
堤体水裏の斜面、落水が反射体となる。
銘板

急きょ変更!夕方ゲームへ

かくしてゲームは夕方、日没前のその時間まで持ち越されることとなった。

長丁場を堤体前で過ごすことが決定・・・。になったわけであるが、その待ち時間については何ら億劫であるとか面倒だという気持ちは湧いてこなかった。

むしろ大好きな堤体前で長く過ごせることに喜びを感じていた。

自慢じゃないが「砂防ダム音楽家」として活動してきていて、やっぱり砂防ダム等堤体類(この日は治山ダムであった。)そのものが好きなのである。

嫌いだったらこんな山奥に行っていない。これがあって、これで何度も何度も遊ばせてもらって今日まで生きてくることができた。

決して響きのいい、見た目のよい堤体に出会うばかりでないことはもちろんだが、それも一つの堤体の個性として勉強させてもらってきていて、ときには響くかどうかの勝負をして遊んでいる。

堤体前にいるだけで楽しい。もちろん歌えばもっと楽しい。どんな堤体でも・・・、とまでは言わないけれど。

砂防ダムというものは環境破壊の悪だ。という向きもあるけれど、それは過去のことである。これからはこれをレジャー施設として、レクリエーション施設として利用していくことが新世代には求められる。悩める21世紀人類の心の支えになってくれる友はとてもやさしい。友はこうしている今この瞬間においてもガラガラと音を立てながら、山の奥で歌い手が遊びに来てくれることを待っていてくれている。

それはどんなタイミング、いつでも。

こんなにも偉大なものを悪と決めつけて拒絶しつづけるのは本当にもったいないことだと思う。

堤体に遊びにでかけよう!

木々の枝葉の下で過ごす。
サワグルミ
オノエヤナギ
ホソエカエデ
こちらは隠し持って行った最中。非常食に変わった。
最中は駅前で密かに買っていたものだった。

大きなプレゼント

この日、堤体前をあとにしたのは午後5時15分のこと。

結局、太陽の光のあたりかた、見えかたが良くない状態だとも言いながらも好奇心が勝ったりして、ときおり歌ったりしながら5時間以上の時間を堤体前で過ごした。

なかでもとくに印象的だったのが、太陽が山の稜線の中に完全にかくれた午後4時半以降の時間。

夜の帳が下りようかという緊張状態のなか、ピーンと張り詰めた空気の中で明らかに自分自身が歌に対して集中できているということがわかった。

風の無い、空気のほとんど動かないシチュエーションに対して瀬のノイズは大きく、響き作りは困難を極めたが、高い集中力のなかで何度も声を入れることにトライできて楽しかった。

自分自身で意図的にメンタルをコントロールするのではなく、環境に身をまかせながら自然に集中力をあげてもらえたのは大きなプレゼントであった。

肩の力を抜いて、受動的に目の前の景色にのぞむことが出来たと思う。

充実感をもって堤体前をあとにした。

段差が多く賑やかな溪だ。
太陽が山の稜線にかくれたのは午後4時半頃のこと。
風は無風。
細い木がたくさん生えている。
響きの面においては厳しかった。