ドイツ・リートというジャンルが好きなもので、堤体前で歌うのは専らドイツ・リートである。
したがって歌で扱う言語はすべてドイツ語。
これが難しい。
一つ一つの名詞に性が付くこと。男性名詞、女性名詞、中性名詞のうちいずれか一つ。
名詞にいずれかの性が付くことが分かったところで、冠詞が格によって変化すること。
同様に、名詞にいずれかの性が付くことが分かったところで、つづく動詞、形容詞が人称や格によって変化すること。
名詞の性によって変化した冠詞はさらに前置詞にくっついて融合形をなすこと。
複合語を理解すること。
この言語の難しさのなぜを一つ、二つ、と挙げていくと止まらなくなってしまう。
歌曲の元になった詩が一体なにを言わんとしているのか?詩が伝えようとする想いや情景を理解したいという願望あってはじめた語学学習も、目下休止中という状況である。
今まで自分が歌ったことのない歌に取りかかるときだけ、あらためて単語を理解しようと翻訳アプリの結果に注視したりはする。
おおざっぱに詩を解釈しようと程度には頑張るけれども、例えばドイツ語検定のような認定試験を通じて、語学基礎能力全般を向上させようといった取り組みには全くもって疎くなってしまった。そもそも、
ドイツ語が出来るようになりたいか?
という問いに対して自分自身、明快に「はい。」と返事が出来るような性格には到底、おもえない。苦悩するのは、出来るようになりたいか?という問いに対して単純回答すればいいところしかし、前述した言いわけのような文句を脳内再生あれやこれやといちいち応戦してしまうことにある。
こういったところは自信満々、「はい。」とすっきり返事ができる人のほうが清々しくてよい。今現在どれだけこの言語の語学力を有しているか如何にかかわらず、そういった人はすごいと思うし、ならばすでにこれは才能持ちであると言ってよいのではないかとも思う。
語学が出来るようになりたいという願望をしっかり学びの機会へとつなげられる人。
学びへの意欲という才能。
簡単なようであって、しかし、誰もが持っているわけではないもの。
意欲というたったそれだけのこと。しかし持ち合わせるのは容易でない。
うらやましき才能である。
勝沼中央公園
9月7日、午前8時。山梨県甲州市勝沼町、勝沼中央公園。
ここは中央公園というだけあってちょっと広めな公園。
公園といえば公園樹。公園樹といえば樹木観察。樹木観察といえば図鑑。
図鑑を持って樹木の同定にスタート!
樹の名前を知ること。樹の名前を知ることといえば、普段フィールドで行っていることと同じだ。
自身が堤体前、もしくはそこにたどり着くまでのあいだに見た樹木について、その名が分からないときには図鑑を開いてどんな樹か?と調べるようにしている。(ただし、これは時間に余裕があるときだけ。)
これが砂防ダム音楽家にとって本当に必要なスキルなのかどうかはわからない。そもそも、歌うために堤体前に立つこと。その大義は遊びであり、遊びという絶対的決まりに照らし合わせてやっていいことなのか、ダメなのか?そこは慎重に判断されなければならないはずだ。
学問やりに来ました。勉強しに来ました。みたいなことを現場で言うのがそもそも嫌だ。
植物学は不要。
したがって、堤体前に繋がる日常生活の樹木。たとえば公園樹や街路樹、庭木などを用いて樹木に造詣を深めること。予備学習として、公園に生える木を観察したりする行為は基本的に必要ないといえる。
つまりのところ必要ないことをやっているということ。必要ないとしながらも続けているのは、
学びへの意欲?
木を見ると、この木はなんという木なのか知りたくなる。
観察の場所を変えるたびにいろいろな木と出会う。
あの場所にあった同じ木がここにもあるという偶然に出会ったり、似たような木なのだけれど生育する温度帯の違いで、異なる種類であったりすることがおもしろい。
例えば、使用している図鑑の著者が北海道で撮影したという写真の葉と同じものを山梨で見つけたりすることがおもしろい。
もちろん、今まで見たことの無かった新しい木に出会うことはめちゃくちゃ楽しい。
いろいろな木が知りたいという願望を学びの機会へとつなげられている。
・・・、
才能か?
慶千庵
午前10時50分、勝沼中央公園を離れ、昼食に向かうことにした。
気温35度。猛烈な暑さのなか選んだ昼食は「ほうとう」。(暑さに負けないように、温かいものを食べよう!)
中央公園ちかくに「慶千庵」という店があることをスマートフォンで調べ、歩いて向かうことにした。
午前11時10分、慶千庵に到着。店の門をくぐり抜け中に入ると、すでにヒトダカリ状態ができあがっていた。
店の姐さんが客の名を呼んでいる。どうやらこの店は入り口のところにウエイティングボードがあるらしく、さっそく記帳しに行ったのであるが、驚いた。
入り口玄関のすぐ横に氏名を書くバインダーがちょこんと置かれている。
バインダーの紙には罫線マスで区切られた紙が挟まっている。また、罫線マスの一番左側には1~20の番号が振られていている。問題は、もうすでに16までの数字が氏名で埋まっているということだ。
17の右に「モリヤマ」と記入し、待つことに。
やれやれ・・・、
この待ち時間が飽きなかった。門から玄関までの通路は30メートルほど。その通路と両サイドは見事な庭である。庭というのだからもちろん木もある。
木のことは先ほど中央公園で一区切りやってきたつもりであったが・・・。
結局ここでまた“再スタート”することになり、脳を活性化され、適度な疲労感とともに時間をつぶすことになった。おかげで腹が減った!
その後は名を呼ばれ、無事ほうとうにも逢りつくことができた。
店を退店する際、依然として多い来客には心底びっくりしたが、逆を言えばそれだけ大勢の人が、この見事な庭に接しているということ。味にも見映えにも儲けさせてくれる店であった。
堤体に向かう
午後0時20分、堤体に向かう。
慶千庵の門を出て、南へ200メートルほど歩いた。目の前には本日入渓する日川。ぶどう橋より日川の様子をチェックする。
異常なし。
ぶどう橋より再び慶千庵の店の前を通って、勝沼中央公園駐車場(勝沼中央公民館駐車場)へ向かう。
午後1時10分、勝沼中央公民館駐車場にて車に乗り込み駐車場を出庫。「勝沼地域総合局入口」信号交差点から旧甲州街道を東へ。
午後1時20分、「柏尾」三叉路より国道20号線に連絡し東京方面へ。
午後1時半、国道20号線「景徳院入口」信号より左折し、山梨県道218号線に入る。
山梨県道218号線にしたがって進み、砥草庵まえ、日川渓谷レジャーセンターまえ、天目トンネルなどを通過。
午後1時45分、やまと天目山温泉の日帰り入浴施設入り口にある「天目橋」のさらにもう一本上流側「六本杉橋」をわたってから700メートルで天目山駐車場。(ここはトイレがある。)
天目山駐車場からは4.1キロの行程。天目山荘、高山荘、嵯峨塩館といった民宿・旅館の前を経由して到着するのは川に降りられるスロープの入り口。当日はスロープに立ち入り禁止の紙が貼られたバリケードがあったため、さらに100メートルほど進んで道幅の広くなったところに車を駐車した。
観察センター
午後2時、車から降りて入渓の準備・・・、いや、眠い!
やっぱり今日は頭を使いすぎている。頭の中にある樹木名を取り出したり、また取り入れたり。名をすでに知っている樹木であっても、図鑑に書かれた生態のことを読んだりしていて、さすがに疲れた。
木を見ることは楽しいのだけれど、やっぱりあれこれ頭を使うので疲れる。ここだけはどうしても避けて通れない難しいところだ。
車のシートをリクライニングにし、午睡をむさぼった。
午後2時20分、むくっと起き上がり入渓の準備。
車の後部ドアを開け、バックルストッカーからウエーダーを取り出す。おもむろにウエーダーに履き替えると、履いていたスニーカーを車内へ。
空を見ると曇っている。
夏山はいつだって安心できない。履いていた靴ぐらい干してから出発したいところであるが、突然雨が降ってくることもあるので空には見せられない。隠してから行く。
午後2時50分、ウエーダー以外の装備も整ったところで出発。まずは道路を歩いて銘板を撮りに向かう。
山梨県道218号線の道路路肩沿いには谷から生えた木々の枝葉がちょうど同じ高さで延びている。あれやこれや樹木の観察センター状態になってしまっていて、ここでついつい足が止まる。
ん?
なんとよくよく見てみれば、ブナとイヌブナという二つの似て非なるものが揃って展示されているという偶然が!ホントにこれが自然散布によるものなのかどうか疑いたくなるくらい優秀な観察センターである。
午後3時20分、銘板の撮影と観察センターの見学を終え、いよいよ谷を降りるときが来た。
谷は登山用ポールの補助を借りながら降下する。目に見えているルートを行くこと、大きな石には決して乗らないことを条件にあせらずゆっくり行けば誰にだって降りられそうな坂だ。とにかくあせらずゆっくり・・・。
寸刻、下り坂と格闘したのち河原まで降りることが出来た。
ゴー!
午後3時半、川を見て驚いた。激流。
当地点からおよそ3キロ上流には上日川ダム。川の様子から察するに本日は上日川ダムのゲートが開いている。しかも、暫く水を貯めてからの解放であることが目の前の状況から推察される。
放水路天端から落ちる水によって発生する、爆音ならぬ瀑音があたりを包んでいる。
ゴー!
とも
ドー!
ともつかない音によって。
いや、音というよりも空気の振動そのものに全身が包まれているような感覚に近い。
全身に迫ってくる震動は、耳には音の耳栓を嵌めたように作用している。
これでは堤体前を鳴らすとか、鳴らさないとかそういうレベルの話しには到底ならないだろう。無理だ。
河床の洗掘にともなって側面崩れたあたりは若干えぐれていて、音が和らぐか?と思い対岸に移ってみた。しかし、全くそのような効果は得られなかった。
これはダメだろう?
とにかく、今日は歌って空間を鳴らせるような状況にはない。
上流より襲来する水の多さを眺めつつ、途方に暮れる。
どうにもならない状況
午後3時40分、自作メガホンをセットし声を入れてみる。
すでに歌う前からどうにもならない状況であることはわかりきっているところ、それでもやってみようという気持ちが失われず準備をしてみた。
声を入れてみる。
が、
やっぱり・・・、鳴らない。
声を発する楽しさは得られていようか?とりあえずは声が出せている。大いなる相手を前にして。
歌うという行為そのものはいつも通り出来ている。
しかしいつもと違うのは、音が鳴らないという状況。と、鳴らない状況をつくっている原因が、圧倒的な水の量にあるということ。
たしかに鳴らない。しかし鳴らないけれど歌えなくなるわけではない。
これはもったいない?
結局、この日は午後5時半まで堤体前で過ごした。
いやはや、こんなタイミングで現場を訪れることになろうとは思ってもみなかった。
ノイズ・・・、というより空気の振動に全身が包まれているような環境で声を入れていくという体験が出来たことはよかった。
しかし、声を入れるからには響きとして音が還ってくるような状況の方がありがたい。
これが、通常、音楽的な楽しみかた。
プラス!
では、与えられた状況下そこから遊びを作り出すという工夫ができるかどうかが、今後の課題なのではないかと思った。
歌えなくなるわけではない。ということが再確認できたなかで、ならばその状況で歌い手が持ちうる限りの能力を用いて、道具の力も借りて、こんな日でもゲームとして成立させていけるかどうか。
物理的なもの、精神的なもの。解決にはどちらが必要か?もしくは両者ともに必要なのか?
演奏施設である堤体前を無駄なく使えているか?
歌い手自身、堤体前がときに遊びのベースを違った形で提供してくれることに気がついていなかったらこれはもったいない。こういった状況下でいかに遊べるようにするかもプレーヤー側は問われているかもしれない。
激流の日であった。
無理だ。ダメだと言った。しかし、
もしかしたら逃してしまった大いなるチャンスだったかもしれない?!
学びへの意欲という才能。
とは、冒頭のはなし。自分じゃ絶対に無理だと思ったことをやってのける人がいるのもまた世の中のおもしろさ。たのもしさ。
ならば、常にもっともっと上に人物がいることを想定して挑まなければならない。こういった状況下で声を入れていくような音楽というのが未来の世の中にはあるのかもしれないということを忘れず。
ここで遊べない。という事実に何となくさせているのは、その「情報」をつくっている「時代」というたったそれだけのこと。
損をするべからず。
チャンスを逃すべからず。
こんな場所でさえ遊べてしまう透明人間の存在をその背中を追いかけてみたい。