新規開拓の季節到来。

今回も宇久須川のエピソード

宇久須川に初めて行った頃のことを書こうと思う。デジタルカメラの画像に付いた日付によれば、それはどうやら2016年の11月頃のことのようである。きっかけは当時の勤務先に、本屋でアルバイトしているという方がいて、その方に地理院地図を探してもらい購入したことから始まる。その後は専ら地理院地図の情報をたよりに、伊豆半島各地の砂防ダムに行っては歌っていたことがデジタルカメラのデータからわかるが、中でも宇久須川水系の堤体の画像が非常に多い。もうこれは地理院地図を見れば当たり前のことなのだが、伊豆半島西部、駿河湾に流れ出す各河川を比較したとき、砂防ダムなどを表す二重線マークが多いのは、圧倒的に西伊豆町を流れる宇久須川水系である。二重線は宇久須川の本流に多数見られるだけで無く、その支流河川である不動尊川、大久須川、赤川の3河川にも数多く描かれているため、全部合計すると相当な数になる。(そして地図に描かれていない堤体も存在するため、実際の総合計はさらに大きくなる。)

宇久須川での初堰堤

ウハウハ

どこであったか?という初入渓の場所は記憶に間違いは無く、上流部であった。宇久須川を県道410号線に沿って登っていくと画像Ⓐの堰堤が目に入ってくるが、その周辺、道路が大きくカーブしているあたりが道幅も広いため、当時もそのあたりに駐車したことであろう。

「一帯」という言葉の定義の仕方によっても異なってくるが、デジタルカメラのデータによれば、この一帯だけで画像Ⓐの堰堤も含めて7本もの堰堤を発見している。堤高5メートル未満の低めの堰堤ばかりであるが、いずれの堤体もその側面を自然のまま(側壁護岸を伴わない)としているため、雰囲気としてはなかなか趣がある。敷設からの年数も長いようで、堤体本体がしっかり黒くなっていることは、スギの渓畔林によって生じる暗がりをいっそう引き立て、歌うときにより詩の世界に入り込んでいけるのではないか?そのような雰囲気の中、当時どの程度まで音楽を楽しめていたのかは記憶していないのだが、初めて経験する連続の堰堤群に、気分はウハウハだったように記憶している。

画像Ⓐ
黒が映える。
完全に土の上からやっているめずらしい画。

砂防ダム探しのメソード

一方下流部はどうであろうか?下流部には翌月の12月に初入渓したようである。下流部の堤体へは、上流部への時と同様に県道410号線を使用してアクセスする。県道410号線は宇久須川をほぼ平行に登って行ける道なので、車を運転しながら川の様子をうかがうことが出来る。そして私は3年前、偶然にもこの宇久須の地で「砂防ダム探しのメソード」を修めたのであった。

このように道路のすぐ横に堤体がある。

川が階段状になっている

川が階段状になっている。ということを発見したことが大きかった。

これは登り、の時のことでは無く、車で下っていた時に気づいたことなのだが、宇久須川とほぼ並行に引かれた県道410号線より川を覗きこみながら走ると、あるところで川は突然、水平に近い状態となる。これは砂防ダムの堤体上で溜まった土砂によるものであると理解するのが、さらにその地点から下り続けた数秒後のこと。堤体が現れ、なるほど。せき止められた土砂なのか・・・。となる。そしてその直後に川の落水の様子を目撃する。
自分自身が見たかったのはその落水の様子。やはり気になるのは堤高の規模なので、ここでは落差が大きいほど嬉しさがある。大きな落差に期待して、自然と堤体の下流側の様子も見ることが出来ていたのだ。全体的には、川が水平に近い状態になった所から、堤体を境にストンと落ちてまた流れ始めるという、一つの堤体を中心とした川の高さの変化を見たのだった。

堤体を境に河床の高さが異なっていることがわかる。

あることに気がついた。

そのまま坂を下り続ければ、また次の堤体の箇所に入るため再度、水平になって、ストンと落ちる変化が見られる。次回以降もそうで、また水平になってストンとなる様子を見る。以降もこれのくり返しである。堰堤、砂防ダムの連続した宇久須であるからこそ、遭遇することが出来た光景であった。

ここでふと思ったのは、一つ一つの堤体によって出来た変化を合わせると全体的には川が階段状になっているということ。それぞれの堤体同士の間隔は決して短くはないものの、川は堤体という人工物によって、これまた人工物である階段のような形に変形させられていたのである。そしてその変形を見た時に私はあることに気がついたのである。
―川が階段状に変形することを察知するのに、堤体本体はあまり関係しないということ。―

落水を伴いながら一段一段下がる。

どういうことか?

水平に近い状態となった川は、面積的にはかなり広い範囲で見ることが出来る。一方の堤体本体はその幅およそ1メートルの“区間”でしかない。ゆえに前者は見つけやすく、後者は見つけづらい。実際の階段に例えれば、溜まった土砂によって形成された広い範囲は、階段の足を乗せる部分で、堤体本体は階段の“縁(ふち)の部分”でしかないのだ。

この事に気がついたことは以降の砂防ダム行脚において非常に役に立った。堤体を上流側から見つけようとする時、幅が1メートル程度しか無い堤体を探そうとしてもこれはなかなか難しい。ましてや、自然界の中では樹木や草によって視界が遮られるため尚更だ。堤体本体がただあるだけでは満足できず、その周辺に生える渓畔林の存在を大切にしている自身にとって、基本的に目指す先はそんな視界が遮られてやまないようなところばかりであるはずだから、見つけようと頑張ってみても困難な現状に直面することが多いはずで、事実、実際の現場でそうなることは多い。

水通し天端と袖は非常に短い区間。

探さなければならないのは

探さなければならないのは、見つけやすい、水平に近い状態になった川である。大きな石がゴロゴロ転がっていて、大小の轟音を放つ渓流区間のはずであるのに、あまり大きくは無い石が乾いていて広く溜まっている所。妙に流れの幅が狭くなって、すじ状になったところ。樹木が生えているが、その付け根には全然根を見ることが出来ずに土や石が覆いかぶさっているところ。川でこれらを見つけたら近くに堤体がある可能性が高い。上記のような変化は、流されてきた土砂の蓄積で、川の傾斜が水平に近くなったところによく見られる光景だからである。

川と道路がほぼ並行に走っていること、堤体そのものの数が多いこと、様々な偶然が重なりあったおかげで、宇久須では大変な勉強をさせてもらったと感謝している。前回のエピソードでは、無性に歩きたい!となったとあるが、きっとそれはこの川で得ることができた「学び」による感動を再び味わいたくなったからなのではないかと自分では思っている。

いよいよ冬が本格化するが、以降は、これまで視界を遮っていた草木の多くが枯れ、視界が最も開けるという季節に突入する。山の中の様子が見やすくなる中で、どんどん新しい場所にチャレンジして数多くの堤体を発見したいと、自身に対しワクワクしている。
探そうではないか、砂防ダムを。冒険しようではないか、山を。
新規開拓の季節到来。である。

堤体上に溜まった土砂を見つけるほうがわかりやすい。
宇久須川下流部の堤体。

ルアーフィッシング情報

ルアーフィッシング情報

ルアーフィッシング情報という雑誌が手元にある。西暦2000年の12月号とのことなので、自分が高校生の頃に買ったものである。

その雑誌の中にある連載記事。記事の内容を要約すると、ナレーターを本職とする筆者が仕事のオフを急きょもらうことになり、西伊豆に釣行。昼はヒラアジ類の幼魚(メッキ)を岸から狙い、夜は船からバラムツ(深海魚)釣りを楽しんだのち、下船して、再度岸から釣りをして帰宅したという内容。記事の内容はメッキ釣りのこともバラムツ釣りのことも大変詳しく書かれていて、読み手であるこちらを大いにワクワクさせてくれるのだが、それにも増して話が最高潮に盛り上がるのがクライマックスの部分。釣りそのものの出来事になるが、メッキ釣り用に用意した非常に華奢な釣りの仕掛けに、体長80センチはあろうかという大型のヒラスズキが掛かり、為す術も無く糸を切られて逃してしまった。というところ。記事は筆者の歯を軋ませるような言葉とともに結ばれている。

記憶のページを開く。

かつて憧れの地に降り立つ

当時の自分自身にとって大型のスズキ(シーバス)を釣り上げることは大きな夢であったため、この記事は非常に印象に残っていた。使用していた釣り糸の太さやルアー、掛けた魚の大きさもそうであったし、その釣りの舞台となった地である宇久須港もきちんとルビが振られていたため、しっかり“うぐす”と読んで記憶していたのであった。

まさかその西伊豆町宇久須の地で自分が今回、仕事をするなどとは思ってもみなかったのであるが、現実となってしまった。高校生当時は新潟県に住んでいたのだから尚更である。日本海、では無く太平洋沿岸のかつて憧れの地に、砂防ダム音楽家として訪れたのが雑誌の発売日から19年後の2019年、12月16日のことである。

歩きたい!という衝動に駆られ

件の宇久須への行き方であるが、伊豆半島西部を南北に結ぶ国道136号線を南下していくと、やがて恋人岬の看板を見ることが出来るが、そこから数えて3本目のトンネル「賀茂トンネル」を抜けたところからが賀茂郡西伊豆町で、その賀茂トンネル直後の小洞トンネルという短いトンネルを抜けたところ、海上にテトラポッドが並べられているあたりが早速の「宇久須」のクリスタルビーチである。今回入りたい宇久須川はその先の「松ヶ坂トンネル」通過直後にいきなり現れるが慌てず、右手側には農協、左手側にはセブンイレブンとなる「宇久須南」の信号までそのまま進み、「ラーメン幸華」の矢印看板に吸い込まれるように左折すれば良い。あとは道なりに進んでいけばやがて宇久須川に出会うことが出来るため、これに沿って堤体を探せば良い。

12月16日、当日は正午前から宇久須川に入り、午後5時前まで宇久須川を歩いた。当初の予定では、宇久須川を真横に見ながら遡ることが出来る県道410号線から一本良さそうな堤体を見つけ出し、歌を楽しんで終わらせる予定であったのだが、実際に同地へ来てみたところ、無性に歩きたい!という衝動に駆られてしまって、結局7本の堤体を回った・・・。

宇久須川の堤体例その1
宇久須川の堤体例その2

双方を両立

普段はこのようなことをあまりやらない。堤体を「安全に」行き来することも砂防ダム行脚の楽しさの一つと考えている自分自身にとって、あちこちの堤体をまるで居酒屋をハシゴするように歩き回ることが一番の危険行為だと考えているからだ。

例えば、その日スタート地点に立った時に保持していた集中力が100であったとする。スタート地点から一本目の堤体に向かうまでに幾らかの集中力を消費しながら見事到着した。途中、ケガなどのハプニングも無かったため、では次の、二本目の堤体を目指そう。となったとしよう。その一本目の堤体を離れてから二本目の堤体にたどり着くまでに消費することができる集中力の最大値は「スタート地点から堤体」までのあいだに消費した集中力の“残り”であり、100ではない。それも終わり今度は二本目の堤体を離れ三本目に向かう。三本目の堤体に向かうまでに消費することが出来る集中力の最大値は「スタート地点から二本目の堤体」までに消費した集中力の残りであり、100はおろか、大きく(一本目までの分+二本目までの分)マイナスした数となる。そのようにしていけば以降四本目、五本目と向かう堤体の数が多くなるにつれて、より少ない集中力でクリアしていかなければならないことになる。(・・・と、考えている。)

堤体の寸前に非常に解りづらい危険要素が隠れていたとしよう。その堤体がその日一番最初のものであったので、大きな集中力を持って挑み、みごと回避出来た。となれば良いが、今回のようにその日の七本目の堤体寸前にこれを迎えていたらどうなっているのか?百発百中きちんと気が付くことが出来るのか?

そしてもちろん、堤体を前に歌って終わりでは無い。最後に訪れた堤体から今度は車の置いてある所まで戻らなければならないという使命が常に毎回発生する。このときに必要な集中力もやはり“残り”で対処しなければならない。そう考えると、その日何本堤体を訪れるのか。という計画段階から、その本数が多ければ多いほど、ケガ無く帰ってこられる可能性は低くなるということが言えるし、逆に、その本数が少ないほど安全に帰って来られる可能性は高くなると考える。

好奇心旺盛に新しい砂防ダムを見つけていく楽しさ。砂防ダムを安全に行脚し、最後必ず帰って来なければならないという絶対的ルールにより生じる楽しさ。双方を両立することはなかなか大変ではあるが、砂防ダム音楽家としてそれにふさわしい行動を常々とっていきたいと考えている。

宇久須川の堤体例その3
宇久須川の堤体例その4

セブンイレブン天城湯ヶ島店

セブンイレブン天城湯ヶ島店。手前は簀子橋。

セブンイレブン天城湯ヶ島店という店がある。伊豆半島中央を南北に縦断する国道414号線(下田街道)で伊豆市市山の信号を過ぎて旧天城湯ヶ島支所前を通過、ひなと丸(土産物店)、浅田わさび店、浅田自動車などを見ながら進むと、左手におなじみの「7」の数字があらわれる。言わずと知れた“天城越え最終コンビニエンスストア”である。天城越えとはこの国道414号線を河津町方面に向かって行くと標高643mの地点に「新天城トンネル」というトンネルがあり、そこを通過して河津町内へ抜けることを言う。その昔は実際に峠道(二本杉峠)があったということで、天城峠越えと呼んでいたようであるが、その後、天城トンネル時代を経て、現在の新天城トンネルを利用しての峠越えとなっている。

観光の看板も備える。

安心感

セブンイレブン天城湯ヶ島店は、その峠越え前の最後のコンビニエンスストアということになる。以降は峠越えしてから河津町佐ヶ野までその恩恵にあずかることは出来ない。恩恵などというと少し大げさかもしれないが、この店以降は徐々に民家の数が減っていき、新天城トンネル前の誰も住んでいないような地帯に侵入していくことになる。そのような環境が待ち構えていることが解っているならば、自然とハンドルを握る指先にも力が入ると思うし、その緊張感を解きほぐすようなツールがあれば・・・ということで、自然とこの店の駐車場に入ってしまうのである。夏場であればここでアイスクリームなどを買って食べればいいと思うし、これからの時期であればホットコーヒーなどが嬉しい。いずれの商品を買い求めるにしても、レジで決済が終わったあと手元にあるのは商品と少しの安心感である。都市部で日常的にコンビニエンスストアを利用しているという人も、この店では普段とは違う買い物が出来ると思う。きっと、いつも手にしているあの商品が、今日はなんだかズッシリとしていて心強いな・・・となるであろう。

こちらは最終スタンドの伊伝(株)湯ヶ島店

奇跡の店

12月5日午前10時。件のセブンイレブンの駐車場に入る。まずは、店舗に入り昼食を買う。店を出たらその駐車場のフェンスを隔てて北側に流れている長野川の様子をうかがう。水量はいつも通りたっぷり流れている。2日前に降った雨の影響もあるであろう。ここの店に寄った時はいつもこんな感じである。長野川に入る時はもちろん、本谷川本流、支流、そして河津町方面に行く時もまずはこの長野川の様子をチェックして、行き先の状態の参考にする。水系が同一で無くとも、ここで普段より水が出ているな。と感じれば、それから実際行った川もだいたいそのような結果となっているし、そのようにある程度予測が付くものだから、ここで予定を変更して違う川に向かったりすることも出来る。長野川は狩野川の支流河川であるが、それをこの地で観測することが伊豆半島全体の河川を観測することとほぼ変わらない結果につながることを考えると、しかもそれが一軒のコンビニエンスストアの駐車場で出来てしまうという、これは便利なことこの上ない。店にある商品が「安心感」を伴ったタダものではないこと、こうして伊豆半島全体の河川を予測するインフラが店のすぐ北側を流れていること・・・。これは奇跡の店である。

長野川。簀子橋より。

静岡なのに長野

本日は、店の駐車場から観測した長野川にそのまま入る。ただし入渓点はそれよりも上流側にあるためまずはそちらへ向かう。午前10時過ぎ、店を出てわずか100メートルほど先にある「湯ヶ島宿」の信号を左折する。そこから長野川に沿うようにして3キロほどの行程をドライブする。ここは静岡県なのにその地名を「長野」とする不思議な所だ。長野の「野」の字を充てるには本当に大大大適切な場所で、伊豆市南部はほとんど険峻な山岳地帯で構成されるが、この地は比較的緩やかな丘で、広く開墾されており、そこで稲作などをしている。ちなみにその稲作をしているあたり、集落の中は非常にのどかな田園風景を見せるが、長野川の最上流部はコテコテのワサビ生産地となっており、そのワサビ田を囲む山の斜面も相当にきつくなる。ただ、集落のあるあたりと比較して広く開墾していることは最上流部にも共通していて、空からは太陽の光が燦々と降りそそぎ、天城の山から育まれる冷水とともにワサビを育てている。そんな環境で育てたモノは絶対にうまいに違いないと思っているのだが、残念ながらこれを食したことは無い。機会があれば試してみたいと思っている。

長野橋
用水で出来た滝があったりする。(画像中央)

今年一年、出来るようになったこと

午前10時30分。長野第三砂防ダムのすぐ横にある駐車スペースに車を停める。本日向かう堤体は、この第三砂防ダム(副堤上は立ち入り禁止)では無く、もう一本上流側にある。準備を済ませた後、第三砂防ダム主堤上に溜まった土砂に向かって入渓し、そこから10分も遡ると目的の砂防ダムにたどり着くことが出来た。堤高は第三砂防ダムとほぼ同じくらいと思われ、それでは15メートルといったところであろうか?横幅(堤長)と水通し天端はこちらの方が長く、2階部分の景色が広く開かれていることがなんとなくわかる。砂防ダムとしては大型の部類に入る堤体だ。
今年はこのような大型の堤体での遊び方を知った年であった。水がドカンと落ちていて、自分の出す声がほとんど響いていないのだけれど、それを逆に楽しんでしまうということの面白さを覚えてしまった。以前は音楽というのは音を響かせてナンボ、そうで無くてはいけない。という概念の縛りつけのようなものがあったように思うが、自然界の中での音楽活動によって、それがものの見事に崩れ去る瞬間に立ち会うことが出来た。そしてそのことは同時に、何事もやる前から全て決めつけてはいけないのだという戒めのようなものを自分自身にもたらしてくれた。音楽のことに関して言えば、大堤体のドカンを前に「ただ響いていない。」ということでもあるので、これから改良すべきところは改良して伸ばしていきたい。砂防ダム音楽の楽しさ、その追求に終わりは無い。

長野第三砂防ダム。主堤上にあるのはライブカメラ。
用水の取り入れ口がある副堤上は立ち入り禁止。
シラカシの渓畔林の下に入る。
堤体全景。

京都遠征〈後編〉

3日目は滋賀県に。

三日目のスタートは滋賀県大津市の一丈野(いちじょうや)駐車場からであった。ここは金勝山(こんぜやま)ハイキングコースのスタート地点となる駐車場で、駐車場のすぐ脇より遊歩道が整備されている。この日私が実際に利用したのは、その遊歩道のほんの最初の最初、オランダ堰堤までの区間である。(奥に行けば本格的な登山道になると思われる。)今回の京都遠征をするにあたって京都府・滋賀県の両府県をインターネットで事前調査したのだが、ほとんど情報が得られなかった京都府に反して、滋賀県はこのオランダ堰堤が非常に多くの方によって公開されており、自分も砂防ダムを専門とする者として見ておこうと思い、同地に降り立った。ここの堰堤はオランダ人の技術者ヨハニス・デ・レーケの指導によって明治19年から22年の間に建造されたとされる、日本国内で最も古い石積み堰堤のその中の一基とされている。インターネット上で掲げられている画像を見ると、子どもが川遊びをしている光景が目に入ってくるが、これはすなわち、この地に子どもでも訪れることが出来るということを意味している。砂防ダム・堰堤というのは山奥にあって、完成したら最後、あとはほとんど誰もその地を訪れないということが往々にしてあるように思うが、こうして駐車場・遊歩道が完璧に整備された中で市民に広く開放され、利用されているという点は、この堰堤を建造した者たちにとって大変嬉しいことなのでは無いかと思う。

朝一番を楽しむ

当日、11月23日は土曜日であった。この市民の憩いの場は、紅葉シーズン真っ盛りとあってこれからの時間、多くの人出で賑わうことであろう。その賑わい大会の開始前、閑散とする朝一番の冷たい空気の中、大変さわやかな気分で歌を楽しむことが出来て大満足であった。じつは、本日の砂防ダム行脚はこの朝一番の歌で終わり。このあとは京都市内に戻り、京都ロームシアターにて行われる「第72回全日本合唱コンクール」にお邪魔する予定であったのだ。三日間を統括して、遠征先での堤体探しの難しさはやはり容易ではないということがわかった。一日一基ペースで良質な堤体を見つけることが出来たらもっと良かったように思うが、この難しさもまた砂防ダム探しの魅力なのであろう。
午前8時前に一丈野駐車場を出発し、京都市内に向かう。まずは3日間お世話になったレンタカーを返しに行くため、途中ガソリンスタンドに寄りつつ、レンタカー会社の支店に向かった。京都市内は大渋滞であったが、なんとか無事に入庫。支店から京都ロームシアターまでは10分ほどの徒歩で到着した。

第72回全日本合唱コンクール

大会スポンサー

件の全日本合唱コンクールであるがこの大会は日本全国に数多あるアマチュア合唱団の中から、その日本一を決める。という大会である。それだけに、合唱ファンの注目度も高い。私は京都ロームシアターに来たのは今回が初めてであったが、実際にホールに足を運んで名演を聴きたい。という人々で会場は大混雑。そういう中でこれはとても嬉しいことに、その名演の舞台をスポンサードしたいという企業が現れ、大会を支えている。スポンサーとなった企業は大会のロビーに出店し、自社製品や取扱商品のPR活動を行う。今回、同大会においてロビーに出店した企業は4社。内訳は楽譜出版の「カワイ出版」、録音・録画製品の製造販売「ブレーン・ミュージック」、楽譜・楽器商、音楽教室運営等の「パナムジカ」、テキスタイル&アパレルの「ユニチカトレーディング」の4社であった。

カワイ出版
ブレーン・ミュージック
パナムジカ
ユニチカトレーディング

夢見ている

私は砂防ダム音楽家である。歌をうたう時の人数は違えど、合唱とは近い関係にあると思っている。夢見ていることとしては、来年以降、この全日本合唱コンクール全国大会の企業スペースに砂防ダム音楽家、森山登真須として出店することである。今年は第72回大会であったが第74回大会までになんとかしたい。どのような形での出店になるかはわからないが、同じ音楽というものを愛する同士として協力関係を築いて行けたらな。と思っている。当日の演奏では、古典から現代まで幅広く作品を聴くことが出来た。素晴らしいものの数々であったし、なぜ素晴らしいと感じたかと言えば演奏家のレベルが高かったからであると思う。歌曲も合唱曲も大変魅力的なものが世の中に存在しているのだからそれを次の世代に繋げていきたい。そんな風に思っている自分自身にとって、この日、優れた能力を持った歌い手に数多く出会えたことは、未来の明るい光を感じさせてくれる幸せな体験となった。これからの時代に求められることは、優れた曲、優れた演奏家、優れた指導の出来るスーパー先生、優れたメソッドそれら音楽界の財産を簡単にドブに捨てること無く、維持していくための環境作りであると思う。そんな自分自身の“欲”に今一度気づいた今回の観覧機会でもあったため、この気持ちを胸にまた今後も一本一本砂防ダムへ行脚し、音楽を続けていきたいと思った。自分に出来ることはまず「砂防ダムへ行き、歌うこと」であろう。

夜行便に眠る

午後6時、審査結果を待つ間に行われる学生達の歌合戦を聞き終え、審査発表となった。どの団体も素晴らしい演奏を聴かせてくれたではないか。相対的な比較でどこが賞を取ったとか、どうでもいいことであったので、また、会場の出入り口が混雑する前に(荷物が・・・、デカいのだ。なんせ、渓行するための道具一式、背負っていたから!)ということで、審査結果発表途中の京都ロームシアターをあとにした。重い荷物を抱えながら、三条京阪駅まで歩き、地下鉄、JRを乗り継ぎ京都駅に到着。日付変更すぐに到着する京都駅-沼津駅・三島駅間の高速バス直行便を冷え切る夜空の下、灯る京都駅の巨大ビルを眺めながら待ち、無事乗車。満足感と安心感にドッと襲われ、ぐでんと夜行便に身を委ねたのだった。

オランダ堰堤

京都遠征〈前編〉

京都駅

今回は11月21日~11月23日の3日間にわたって行った京都遠征についてのエピソードのその前編としたい。

11月21日午前10時。京都駅出てすぐにあるレンタカー会社の京都駅新幹線口店を出庫する。京都までは新幹線で来た。予定ではこれから、京都府内を北上。太平洋、日本海を分ける中央分水界を越え、一級河川由良川を目指す。由良川を選んだ理由は、もう釣り人としていろいろ情報源を漁っていた時代(中学生くらい?)にすでにこの川のことを知っていたということが大きい。知名度的に言えば「京都の川」と言うと、由良川よりも鴨川のような淀川水系の川が有名であるように思うが、今回は都の観光が目的では無い。砂防ダム探しが目的であるため、京都府北部の山間地を目指すこととした。因みに「砂防ダム探し」などと言うところからお察し出来るかもしれないが、今回、事前情報で京都府内の“歌えそうな”砂防ダムがまだ見つけられていない。地理院地図の情報をたよりに、二重線を一つ一つ叩いて、時間の許すかぎり回っていく予定を立ててスタートしたのであった。

周山街道沿いは北山杉がよく見られた。

そんな計画が頓挫した

一日目。結論から申し上げるとその“歌えそうな”砂防ダムを見つけることが出来なかった。周山街道(国道162号線)を北上し、南丹市美山にある安掛の信号から府道38号線を由良川に沿って東進。地図上に描かれた支流を適宜選びながら佐々里峠まで見てまわったのだが、良さそうなところを発見することが出来なかった。主な敗因としては、一つ一つの谷が思っていたほどの深さを持ち合わせていなかったということ。高低差が少なく堤体のサイズがみな小ぶりであった。地理院地図上では、二重線をいくつも見つけられていたため、出発前はむしろ―時間が足りなくなってしまうんじゃあないか?―と心配をしていたくらいであったのだが・・・。そんなわけで、ひどく落胆した。落胆しながら一日目を終えた。

南丹市美山のかやぶきの里周辺にて

賭けにも敗れ

二日目。この日はいったん京都府を抜け、滋賀県西部を南北に横断する国道367号線に出る。北上してから再び京都市内に入るルートを選定し、見てまわることにした。一日目の夜、急きょインターネットカフェに入りグーグルマップを開いて堤体を探したのだが、京都市左京区久多(くた)の大谷川で、堤体の一部であるが、良さそうな谷止工を発見したためまずはそちらに向かうことにした。
午前9時。滋賀県大津市を国道367号線に沿って北上し、「梅の木バス停」前の前川橋を渡る。8キロほど進んでお目当ての谷止工を見る。しかし、画面上で確認した“堤体の一部”の賭けに敗れた。思っていたほど堤高が無く、また左岸側の渓畔林も伐採されている面積が広すぎた。その場をあきらめ今走っている府道110号線に沿って京都市左京区広河原まで出る。この広河原から南へ続く道は昨日の夕方、京都市内に戻る時に使用した道路だ。入り口が違うだけで同じルートをたどっていることとなる・・・。焦った。焦りながら昨日とは違うルートを走ろうと、花背の農協前にある橋を渡らずに直進し、灰屋口バス停前を左折。草原橋を渡り、灰屋川という沢に入ることにした。

焦りながら林道を走る
灰屋口バス停前。架かっている橋が草原橋。

気配を感じたら・・・

午後1時。草原橋から4キロほど登った時のことだった。滝か?しかも結構デカい。よく見れば、堤高10メートルほどの透過型砂防ダムであった。惜しい!堤体の二階より上段真横、林道沿いには「砂防指定地」の看板。ん?指定区域を囲う赤い線によって出来た、大きめの四角形が現在地とは別にもう1コ上流側にある。これは期待出来る。そこからさらに2.1キロほど上流側に走った時のことだった。
!!!ついに見つけた!

不透過型発見前に賭けで撮った一枚。やった!

fussreise

冷静になり数百メートル下流側にある「小広谷橋」の横から入渓する。そこから遡るとほどなくして、堤体前に出ることが出来た。堤高は目測10メートルほど。右岸側は崖から各種の広葉樹が、左岸側は低いところにはイロハモミジが、高いところにはスギが生えている。渓畔林が高いところにありそこまでは声が届いていないようであるが、この不透過型砂防ダムを見つけた喜びによって大変に気分良く歌えている。京都の山でフーゴ・ヴォルフが歌えた!

温泉+ラーメン

退渓したあとは再び灰屋口バス停前まで戻り、そこから西を目指した。一日目、周山街道を走っていた時に見つけた「京都北山杉の里総合センター」に向かった。館内にある北山杉の床柱製品、調度品、資料などを見学させてもらったあと再び東へ戻り、くらま温泉に浸かることに。もうこの頃にはすっかり日が落ちていたが、露天風呂は電灯の数が少なめで完全に癒やされた。そのあと、木船口まで下りて京都市内まで戻り、うまいと評判の繁盛店に寄ったのち二日目を終えた。
〈前編おわり〉

くらま温泉
店内は大変に賑わっていた。
入渓点の小広谷橋
灰屋川
堤体横にもスギが。現時点では保安林扱いらしい。
京都府で初めて歌えた。

11月4日の出来事

シカ剥ぎの痕。(河原小屋沢にて)

11月4日。この日は午前中、用事があったため家を出られずにいたが、午後になりようやく解放された。

向かったのは伊豆市東部を流れる西川。国道136号線、伊豆縦貫道を南下し、途中、有料区間である伊豆中央道を経由。その次の有料区間、修善寺道路の料金所を目と鼻の先に見る「大仁南インター」で降り、下道となる国道136号線旧道を使ってさらに南を目指す。この日はスタートが午後になってしまったため、自宅のある沼津市から比較的近い場所を選んだ。また、伊豆縦貫道の有料区間に関しては、1区間で十分だと判断した上でのルート選択となった。

修善寺の入り口となる、伊豆市瓜生野を走る。まだ紅葉シーズンには少し早く、また月曜日であったことから道は空いていた。難なく横瀬の信号までたどり着くことが出来、今度は進路を東に変える。修善寺橋を渡り、そこから道なりに5分ほど進むと「清水」の信号を通過。その後すぐに左手側に現れる割烹料理店「にしき野」の直前を左折。あとは、ぐねぐねと曲がったりするが道なりに農道を進めば良い。

先月ここに来た時は稲刈りシーズンの真っ只中といった感じで軽トラックが多数停まっていたが、この日はそれらも落ち着き、閑散としていた。道は農道からやがて林道となり、さらに進んだ。

農道を道なりに進む

あの時を思い出し

当初の予定ではもう少し奥まで車で進むはずであった。しかし、これもまた台風の影響か、斜面が崩落していた。場所は林道垂溜ヶ洞線の分岐看板を過ぎてすぐのあたりで、土砂と樹木によって林道が完全に封鎖されていた。仕方なくそこで車を停め、歩いて堤体に向かうことに。本日の入渓点とした分岐側から下がったところにある水中橋を見下ろす。
3年ほど前、この地に初めて来た時ハンターの方がここにいたことを思い出す。たしか、乗りつけてきた車には高齢者運転マークが付いていた。朝のあまり早い時間では無く、狩りを完全に終えた後の様子で、この水中橋上を流れる水のなか獲物をさばいたとみられるナイフなどを丹念に洗っていた。多少交わした会話によってハンターであることを知ったのだが、その時には―あぁ、シカを獲っているんだ・・・―くらいにしか思わなかった。シカに関しては同地を含む伊豆市近辺で、「イズシカ」というブランドネームが生まれるほどの活況ぶりであるから、私はハンターの言葉にも完全に楽観視の立場でうなずいていたように思う。

11月4日の当日も、あぁ、そんなことがあったな。程度に思っていたのだ。思っていたのだが、この日後述する出来事を実際に目の当たりにしたことによって、それはけっして簡単に片付けられるようなことでは無かったのだと今は反省している。

崩落箇所
水中橋

秋らしい渓行をする

水中橋より入渓する。入渓直後には川面に向かって伸びるブッシュがあり、腰をかがめてその下を通り過ぎる。ようやく秋本番となったこともあり、その枝々が邪魔くさいのだが、威勢の良さはあまり感じられない。今は枯れてどんどん葉を落とす時期で、くぐり抜ける時に手を添えればたちまちボロボロと葉が落ちる。くぐり抜け、石を一つ一つ越え、倒木を越えながら進む。10分ほど遡った頃であったろうか?突然左岸側に護岸が現れたため、見上げると林道本体であった。すっかりそのことを忘れていたのだが、ここは林道と沢が平行になって続くようになっていたのだ。林道に上がり堤体を目指す。川石がゴロゴロと転がっている沢とは違い、遡るペースが一気に上がった。見上げればアケビの実が枝から垂れ下がっている。土砂崩れの影響で誰も収穫しに来ないのか、見つけたことには喜んだが、林道脇すぐに発生した秋の味覚がこのような状態にあることには不気味さを感じた。

放置された秋の味覚

見つけたシカは全部で3匹

途中、1匹のシカが前を横切った。沢の流れる林道右側から斜面を登るようにして左の方へとシカは逃げた。斜面を登るのだから、そのスピードは決して速くない。むしろゆったりとしていて―なんだこいつは。―と思った。今思えば、この不自然なシカの逃げ方から異変を察知しておくべきであった。シカはよく出会うが、斜面を登るようにして逃げることがまずレアケースであるし、さらにそれがゆったりとしていることはかなりおかしかったのだ。

2、3匹目のシカはいっぺんに見つけた。そのうちの2匹目(手前側にいる個体)の動きがおかしかった。遠目にはシカがマウンティングしているのかと思ったが、そんなわけは無い。ある程度近づいたところで3匹目(奥側にいる個体)が逃亡。それからどんどんシカとの距離が縮まった。シカのそれが止め刺し前の状態であることを知ったのは、距離にして5メートルほど近づいた時のことだった。場所は西川第2砂防ダムの堤体のほぼ、という近さである。

目の前のシカを見て思う

シカはワイヤーを足に掛けたままモガき続けていた。人間であるこちらに反撃してくるほどの元気は無く、ワナに掛かってこのあと待ち構える自分の運命を想像出来ているかのようでひどく落ち込んでいた。私自身もシカのその姿に呆然となる。

思えば非常に不自然に逃げた1匹目のシカも、こちらが通常考えられないくらいほどある程度近づいたところで逃亡した3匹目のシカも、私に対してメッセージを発信していたのかもしれない。
「仲間がワナに掛かっているから助けて欲しい。」と。
私はそのシカを助けることは無かった。助けること無く引き返した。

この日は当然、歌などやる気にもなれず写真だけの砂防ダム行脚となった。
行きの行程で見つけたアケビを帰りに再度見つめた時、本当に不安になった。あのシカを獲りに来る者がちゃんと現れるのかどうか?と。

どうなったかと再訪した

後日、シカの件が気に掛かっていたため再び同地を訪れた。シカは木に掛けられていたくくりワナごときれいに取り外されていた。この再訪の日に、周辺に仕掛けてあった別のワナと有害鳥獣の捕獲を示す標識を確認。どうやらあのシカも有害鳥獣としての捕獲のため、埋葬処分も考えられる。以降、ネットなどでいろいろ調べたが全国的にシカの捕獲数は飛躍的に増えており、その処分方法をめぐっては日本のあちこちで困難の壁に直面しているようなのである。イズシカのように食肉として利用されるのは全体の半数にも及ばず、そのほとんどは埋葬処分というかたちをとっているらしい。伊豆地方もそれは例外では無く、狩猟者の負担や食肉加工センターの処理能力超過の理由から、獲っては埋めるという行為が繰り返されているという。本来、食することを目的ともせずに命をいたずらに奪うということはあってはならないはずだ。しかし、シカがあまりにも増えすぎれば予想だにしない自然災害の発生も懸念される。重要な問題であるのは間違いない。

3年ほど前に自分が思ったことを今になって反省しているのだ。

後日、くくりワナの設置を確認。
西川第2砂防ダム

大好き河津町!vol.5

左がパンジー。右がビオラ。

11月になった。朝晩の冷え込みも徐々に感じられるようになり、いよいよ秋も本番。これからの時期は紅葉が楽しみである。

ホームセンターの園芸売場というのはこの時期、とても華やかである。これからの寒い時期、育てるのが通例となっているパンジーやビオラで売り場は色鮮やかだ。さらにさらに厳しくなる今後が控えているというのに、この花たちは寒さに対して強く、枯れることがない。同種らはもともとヨーロッパで自生していたサンシキスミレの交雑種であるとのことだが、気温が低い環境下、強い耐性を持って生きる植物を人工的に作り出してしまうあたりに同地域の民族性の豊かさを感じる。19世紀の音楽界で言えばロマン派の頃の出来事であるというから、この頃のヨーロッパがさまざまな分野において、娯楽の創造に熱心であったのだと感じると同時に、そしてそれが200年先、現在の世の中でも通用するレベルのものであったということは驚きである。

冬の寒い時期に、あらゆる植物が休眠状態に入りこむ中、そんな中でも元気に育ち、人々に楽しみを与えてくれるものを開発していった結果が今、こうして目の前に色とりどりの色彩となって現れている。

冬の娯楽要素

私の出身は新潟県。冬の間は雪が降る。雪の降る町に生まれたから、この時期に、「よし、これから花を。」という、この時期の花屋としての・・・?

けっしてこれが簡単では無いのだ。たしかに新潟にもパンジーやビオラはあるが、ある意味、大げさに言うと、恒温動物として生命の危機に瀕する雪の時期。そういう中にあって花を楽しむという娯楽的要素がちょっと、どうも・・・。なのである。雪の降る日は家の中でストーブやコタツの暖かさとともに、それをしのぎきることが出来れば十分ではないかと考えている。

窓の外は一面冬景色。全てが白!白一色で“色彩”などというものは存在しない。正月、関東の親戚の家に遊びに行った時に見るような、からっ風で立ち枯れした草木の姿は、それですら自分にとっては色彩であった。冬の或る日、黒ボク土で靴を汚しながら桑畑の中を走り回ったことが思い出される。

グリーンのネットフェンス

グリーンのネットフェンスが

画像にあるこのグリーンのネットフェンス。皆さんの住む町の中にもこのフェンスは当たり前に見られると思うが、実はコレ、私の出身地の新潟県では極端に少ない。(・・・かったように記憶している。学校と道路の境界線などは意外と多い?)少ない理由の考えられることとしては、やはり雪で、雪の持つ水分によって鉄が錆びる。また、雪の重みによって変形する。雪の重みで言えば、降った雪のそれのみならず、屋根からの縦方向の急激な衝撃もあるし、除雪車による横方向からの圧力もある。

考えただけでも、鉄製のネットフェンスは雪との相性が良くない。

建物の境界線はフェンスを使わずに、ブロック塀だけとか、生け垣によって表している。公共施設、アパートなどの建物、駐車場を区切るのに、鉄製のフェンスを使っている例は一定程度あるが、画像にあるような鋼鉄製のグリーンカラーのものはほとんど見かけない。
したがってこれを見ただけで、―あぁ、故郷では無いところにいるのだな。―ということがわかってしまうのだが、なんというかコレ・・・、好きである。自分にとっては「非雪国」を象徴する景色の一部であるから、もはやこれを見ただけで、冬でも外で遊べるのだという期待感が頭の中を巡るからであろう。

群馬県でも普通に見られた。

大鍋に

11月14日。大鍋川の砂防ダムに入った。国道414号線から大鍋入り口の看板を西方向に入って(県道115号線)4キロほど行くと画像にあるようなガードレール製欄干の橋(門前橋)に出られる。橋の手前側100メートル程度のところに防災無線の電柱が立っており、当日はその電柱のあたり、道幅の広くなっているところに車を停めた。
車を降りて準備を済ませた後、まずは橋まで歩く。橋を渡って直後を左に曲がる。そしてまた100メートルほど歩く。

門前橋

すると出た。ワサビ田をぐるりと囲うようにしてグリーンのネットフェンスが立てられていた。ワサビは半日陰の環境を好むため、ヤシャブシの木がところどころ植樹されている。それにしても、このライトグリーンというか、明るめのグリーンカラーは植物との対比におけるバランスが秀逸である。植物の持っているグリーンとフェンスのグリーンとで思案的には喧嘩しそうなところであるが、実際はとても調和されていてカドが無い。色彩的に精神を毒するものが無く、見ているこちらは非常に穏やかな気持ちでいられる。今こうして何事も無く、ここに立てられているが、この色を決めるのには恐らくは多数のサンプルを試したか、改良を重ねていった末の結果なのかと勝手に思ってみたりした。たかだかネットフェンス一つの話しであるが、自然界という莫大な長さの伝統を持った色彩の中に、人間の作り出した“色”を放り込むのであるから、その作業はけっして簡単なものでは無いはずだ。

ワサビ田の横を歩いて堤体に向かう。
ススキとワサビと

大鍋のもつ暖かさ

のどかな田園風景を満喫しながら川沿いに植えてあるクリの木の下に入り、入渓する。堤体は入渓点から300メートル程度遡ったところにある。今年は大きな台風が2本、河津町を襲ったため、ここの“島”は流されたりしていなかったかと心配していたが、大丈夫であった。アカガシの巨木の根によって島の土は支えられ、両岸の河床も崖も渓畔林も見事にその姿を留めていた。この日もまた、小一時間ここで音楽を楽しむことが出来た。

河津の砂防ダムはどこに行っても楽しい。それは音楽の演奏場としての砂防ダム周辺空間が非常に優れていることもさることながら、その砂防ダムに行くまでの行程がまずどこも素晴らしいからである。この大鍋の巨大堤体に行くまでに関して言えば、直前の田園風景、また国道414号線から約4キロ区間の農村の風景がとても暖かい。たしかに気温が低くなるはずのこれからの季節にあってもそうなのだ。

田園地帯を行く。
入渓点
ヤブニッケイ、ウラジロガシなども見られる。
真ん中の島が特徴的な同所。

蛍光ペン

蛍光ペン

自分が蛍光ペンというものの存在を初めて知ったのは小学校の頃であったように思う。同じ町内の子どもが集まって、バスハイクと呼ばれる保護者会の計画した場所へみんなで遊びに出掛けるという行事が、毎年、夏休み期間中などに行われていたのだが、そのバスハイクのビンゴ大会の景品として、自分の手中に収められたのが蛍光ペンとの最初の出会いであったように思う。景品の入った袋を開けると、ほかの鉛筆やらボールペンに紛れて、黒いボディにオレンジや黄色の鮮やかなリングがはめられた、見たことの無いサインペンが入っていた。文房具という本来、主に屋内で使用されるはずのそれは、バスハイクの行き先である森林公園という環境下、とても鮮やかに光り輝き、少年たちを大いに騒がせた。兄や同級生の中に混じって私は、「なんだこれは?」となっていた。

景品担当

バスハイク本体がどこへ行くか?何をするか?昼飯は?配るおやつは何なのか?といったことは全て保護者会の役員によって決められる。自分は当然、子どもであるからそこに参加するだけなのであるが、今思えばその行事に関わった保護者会の役員たちは大変な苦労であったと今更ながらに思う。何十人ものやんちゃな子どもたちを引き連れ、自分たちですら慣れないところに連れて行き、楽しませ、食べさせ、最後、朝の集合場所に子どもたちを降ろして終わりなのでは無く、そのあとしっかり無事に家までたどり着けるように導いてやらなければならない。ビンゴ大会の景品担当一つにしたって、品物は子どもが喜んでくれそうなものを選びつつ、親が見ても腑に落ちるような内容で無ければならない。バスハイク中のエピソードなど直後は甲高く大いに語られるかもしれないが、通常2~3日もすれば子ども、親ともに記憶の中からほとんど消し去られ、忘却の言葉と相成るはずであるが、ビンゴ大会の景品という“形あるもの”は、それがいつまでも証拠として残ってしまう。蛍光ペンはじめ、文房具各種を買いに走った景品担当の苦労というのは、肉体的なものに留まらず、精神的なものも伴っていたであろう。意外と、そういう仕事というのは周りの人間が大して気にしていないのに、本人は「何を選んだらいいだろうか?」と必要以上に気を遣っていたりするものなのである。

見てきたもの

そして今、砂防ダム音楽家となっている。当時は、夏休み中一回きりの森林公園での山遊びであったがそれが一年中、山というところに行くようになり、その山という所での四季、いろんなものを見てきた。ベストシーズンの枯れきった冬山、新緑の春、うだるような暑さの中で生命が躍動する夏などどれもがおもしろく、魅力的である。これからのシーズンは紅葉が楽しみだ。自分は砂防ダム音楽家としてまだまだ経験が浅く、未熟だと思っているが、その少ない経験の中で見たところを紹介しようと思う。

工場①

またしても

場所は持越川上流域。中伊豆、湯ヶ島温泉街を伊豆市市山のあまご茶屋前から入り、道なりに進むとやがて猫越川に寄り添う形になるが、これに沿ってさらにしばらく進むと「水抜橋」というガードレール製欄干の橋に出られる。その水抜橋の直後には丁字路があるので右折し、5キロほど道なりに進むとISO14001認証取得工場という大きな看板が現れる。これは中外鉱業(株)持越工場の工場看板で、その中外鉱業を右手に見ながら橋を渡り、さらに進んだあたりが紅葉の美しいエリアである。「小沢橋」の前には堤高3メートルほどの低い堰堤があり、その堰堤のちょっと上流に行ったところには小さな滝などもある。濡れた川石の黒、渓畔林の暗さから生じる黒。黒の中で様々な落葉樹によって放たれた色が鮮やかに光を返す。

「なんだこれは?」となっていた。最初に見た時。その色はまさに小学校の頃、バスハイクのビンゴ大会で手にした蛍光ペンの色と同じであったのだ。自然界の作り出した黒の中にこれまた自然界の作り出したオレンジや黄色の蛍光が光り輝く。今度はペンの状態で無くてキャップを外して、実際に塗った色だ。いや、規模の大きさから言えば、塗った。とかじゃなくて、蛍光ペン工場にあるであろうインクの入った大きな缶からバカでかい刷毛で塗料をぶちまけないと、この量はまかなえない。などと思ったりした。

工場②
工場③(①~③まで全て合わせるとかなり広い。)
紅葉エリアはこのあたりから
見えづらいが画像中央部に堰堤がある。
この配管のあたりが非常に美しくなる。

紅葉は見てのお楽しみ

本記事では自分のまだまだ少ない山経験の中からも、特に印象的であったこの場所を紹介している。同所の紅葉がとても美しいのは堤高3メートルほどの堰堤と、その上流の小さな滝が影響していると思う。ふだんあちこちの砂防ダムに行っていて、砂防ダムや砂防堰堤周辺には気流が発生することを私は経験の中から心得ている。砂防ダムというのは二階部分から一階部分に向かって吹き下ろす形で空気は流れる。例えば夏場、二階部分に溜まった土砂が太陽光の熱で温められているような環境だとその風はいっそう強い。沢を流れる冷たい水と温められた土砂の温度差で局地的に気流が発生するのだ。樹木の形状が変化する「風衝」ほどの変化は見て取れないが、葉の生育程度にはこの風は影響を及ぼし、紅葉の色がよりはっきりしたものになるのだと思う。
以上の理屈は私なりの勝手な持論だが、それにしても蛍光ペンという化学工業製品並みの色を自然界の環境が作り出してしまうことには大変な驚きを覚える。毎年、毎年忘れること無く色づく植物において、これは原理に基づく物理的変化だと言われても、生き物としての意思を持った作為による発色なのだという感を受け取らざるをえない。

この持越川上流域はトイレさえも無いような観光設備ゼロの無名渓谷であるが、その点含め大変魅力的であるので同地への訪問をおすすめする。尚、実際の紅葉の姿は見てのお楽しみの画像なしということでご了承いただきたい。

紅葉エリアは渓谷と道路が離れるところまで
現場入り口となる「宇久須沢林道基点」
堤体全景。基点からは歩いて15分ほど。

狩野川、アユの川

三田鮎店の「鮎のひもの」

10月21日、この日は朝から秋雨前線の停滞の影響で空がどんよりと曇っていた。昼間の時間帯であるにも関わらず外は異様に暗く、とてもじゃないが砂防ダムに行けるようなコンディションでは無かった。空から降りそそぐ日の光と砂防ダム空間を取り囲むようにして生える渓畔林がもたらしてくれる暗がり、その両者の明滅差を楽しむという砂防ダム音楽の性質からすれば、とてもじゃないがこんな暗い日には現場に向かおうなどという気にはなれなかった。天気の回復を待って午前中は自宅待機、時計は12時を回り、午後になり・・・、あきらめた。

釣り

そうだ、釣りに行こう!となった。季節は完全に秋めいてきた。最近下見をしていた場所があって、そこにはかなりの数、カラスが群れていた。川の中の中洲になっているところで、あのカラスたちはもしや・・・。と、期待していたのである。
自宅を出たのは午後1時過ぎ。市内を流れる狩野川の釣り場を目指してハンドルを握った。そこは海から4.6キロほど遡った地点。完全に川のはずなのであるが、今日狙うのは海の魚、スズキである。

釣りを開始したのは午後2時過ぎ。相変わらず空は暗く、まるで※夕まずめの時のようである。それならばチャンスタイムなのだとはりきり、ルアーをキャストし始めた。が、期待に反して魚からの反応は返ってこない。堆積した砂利によって出来た川岸を下流方向に歩きながら、キャストを繰り返すも、魚にカスりもせずルアーが帰ってくる。やがて下流方向に下がることの出来る限界点まで達したため、今度は折り返し、上流方向に歩きながらキャストを続けた。

※夕暮れ時。あらゆる魚においてよく釣れる時間帯とされている。

今回入った釣り場

スズキさん

魚を掛けることが出来たのは午後4時すぎ。弱ったアユを演出するつもりでルアーを川の流心に流し込んでいくと、突然、握っていた竿が重量感に襲われた。しばしのやりとりで上がったのが画像にある通りのスズキ。本当にアユを食べていて、このような様であるのかは定かでは無いが、でっぷりと太っていて、釣り人的に言えば大満足の一尾であった。この魚は食べればうまいのであるが、本来ならば今日の日は砂防ダムに行って歌を楽しんでいたところの、脱線しての釣行である。突然の予定変更でノコノコやって来た“にわか釣り師”を楽しませてくれた川のスズキさんに対してはもう感謝、感謝の念で胸が一杯で、ありがとうの気持ちを込めて再び川に解き放った。

スズキ

落ちアユ

秋のこの時期のスズキは(ウグイやボラももちろん追いかけていると思うが。)流れ下ってくるアユを食べている。“落ちアユ”と呼ばれる産卵を終えたアユで基本的には皆、弱っているだけで泳ぐことは出来るものの、流れに逆らって上流を目指すほどの遊泳能力を持ってはおらず、これらはどんどん下流へ流されていってしまうという運命をたどる。アユは時に“年魚”という字が充てられたりするが、その生涯は1年と短く、そうやって流されていく過程も1年のうちの一幕で、無残さこの上ないのだが、自然界の常習としてはこの魚の瀕死は他の動物たちの食物として受容される。水中で追うのはスズキなどの肉食魚類。また、カワウなどの餌食にもなる。空中からはトビなどがこの魚を狙う。狩野川の場合ことにアユの多い川なので、あのカラスまでもがこの時期は落ちアユ拾いに精を出すのだ。下見でこの場所を見た時にカラスたちを見つけ、もしや・・・。と思ったのはこのためである。

天然アユは幼魚期を海で過ごす。(狩野川河口)

看板

普段、砂防ダムを目指して狩野川沿いを走ることが多いが、この川の流域は本当にアユという魚と密接な関わりを持った川なのだということがよくわかる。夏に川を上下に見渡せば、必ずと言っていいほどアユ釣り師の姿を見かけるし、そのアユ釣り師を相手に商いをするオトリ店や民宿などの看板がしょっちゅう目に入ってくる。アユそのものの料理や加工品を観光客に提供する店もやはり多く、もはや狩野川を語るのにアユという魚は欠かすことが出来ない。

大仁神社にて その1
大仁神社にて その2
大仁神社にて その3

渓畔林とアユ

アユの適水温、つまりアユが川の中で生活していく上で最も快適な水温はおよそ20℃~25℃の間らしい。伊豆半島は標高の高い山々がそびえ立ち、その頂上付近は当然気温が低い。また、その高い山にともなっては険しい谷が形成され、しかもその谷の多くは渓畔林によって囲まれている。渓畔林によって囲まれた谷を流れる沢の水は太陽光を遮断され、温められることなく下流へ流れ続け、最後、狩野川本流へ流れ込む。その冷たく保たれた沢の水によって形成された狩野川がアユたちにとって本当に棲みよい環境であるのかどうかは魚たちに聞いてみなければ解らないが、少なくとも、川の中を覗けば水中がチビ鮎たちで埋め尽くされている光景はよく見かけるし、地上ではその水産資源を利用した人々の生活文化が当たり前に育まれている。流域住民の生活文化を維持していくのにアユという魚は欠かすことが出来ない存在で、そのアユに対して最適の環境を用意出来ているかどうかはわからないものの、現状を維持していけばとりあえずはこの魚と未来永劫つきあい続けていくことが出来るはずである。求められるものは現状維持。この地域の環境を自然的にも、人為的にも大きく変化させてしまった時、その結果は川に、魚に現れてくることと思う。

オトリ店を示す看板
天城北道路下のオトリ店
狩の川屋
入漁場としての狩野川“の、ちょっと上”にあるダイダルウェーブ堰堤(と、勝手に呼んでいる水恋鳥流路工。)

台風19号

スリップを発見。(長野川最下流部にて)

台風19号が過ぎ去った翌々日となる10月14日、堰口川の谷止工に砂防ダム行脚したことを書こうと思う。

10月14日、この日は自家用車のオイル交換を済ませる必要があったため、まずは朝一、そちらに着手。エンジンのオイルフィラーキャップを開けて、エンジンオイルを注ぐのだが、今日の交換ではその手順がやや慎重にならざるを得なかった。なんと、「さぁ、交換だ!」と作業を始めようとしたら、霧雨程度の細かい雨粒が降り始めてきたのだ。エンジン本体内に雨の水滴が入らないよう、ボンネットを屋根代わりにしてガードしながら、できる限り素早く、エンジンオイルを注ぎ入れた。どうやら今日はあまり天気が良くないようである。

情報を元に各地に立ち寄る

エンジンオイルの交換を終え、自宅を午前8時頃、出発。まず向かったのは、田方郡函南町にある道の駅「伊豆ゲートウェイ函南」。事前に床上浸水したとの情報があったため、被害状況の確認ということで訪れた。国道136号線を伊豆中央道、江間トンネル方向に向かって走り、建物本体を確認。一番先に目に入ってくる道の駅内のコンビニ「セブンイレブン道の駅伊豆ゲートウェイ函南店」は窓から、入り口から、全て白色のブラインドが降りており、閉店していることがわかった。その後、すぐに現れる水色の左折レーンを曲がり、駐車場に入場する。トイレは通常通り“営業”しているようで使用することが出来たが、ゲートウェイ本部のインフォメーション窓口、各テナントが入る建物内部は封鎖されていて入ることが出来なかった。結局、トイレだけ借りて終了、という形でゲートウェイを出発。南下のルートをたどり、伊豆中央道、修善寺道路、天城北道路を経由。次に向かったのは伊豆市市山の旧天城湯ヶ島支所周辺。台風通過当日、私は台風関連の情報をラジオにて収集していたのだが、ここ伊豆市市山がそのラジオのアナウンサーにより何度も連呼されていたのだ。連呼されていた理由は、その爆発的な降水量からで、最終的には12日当日の日降水量は688ミリ、24時間降水量は717ミリ(同観測所における観測史上最多)という数字を叩き出した。その伊豆市市山はどんな状況になっているかとのことで車を降りてみたのだが、国道414号線沿線付近は特に被害らしきものは見られなかった。しかしながら、それだけの猛烈な水の空爆が当日はこの地に降り注がれたのである。市山含め、この天城湯ヶ島周辺の街中もそうであるし、山においては山林、林道内のどこかしらが破損していることが想像できる。事実、その市山にて狩野川に合流する長野川のその最下流部、小川橋~簀子橋間の山の斜面で土砂崩れが確認できた。こういった、あまり規模の大きくないスリップと呼ばれる程度の土砂崩れは、各所で起きているであろう。であるが、今回はその台風の被災範囲の広さと、それに伴っての被災箇所の多さから、この程度の土砂崩れ一つ一つは当然のことながら報道されない。砂防ダム音楽家として、この地域含め、伊豆半島各地の山林、林道、河川構造物等の被災状況が気になっているのであるが、それらに関する情報は自分であちこち出向いて見つけていくしか無いというのが現実だ。このような悩みを持つのは私だけでは無いであろう。山歩きをする人、釣り人、職業者としては自治体の職員、山の調査を行っている人たちなど皆、そうであると思う。伊豆は、国有林も多い。今頃は、関東森林管理局の職員もあちこち飛び回っているはずだ。この令和の時代、情報網が発達した世の中にあっても、山の中の出来事というのは、平成、昭和のころと何ら変わらぬ方法を持ってしか知り得ることが出来ない。事実を知りたいのであれば、自分で“歩いて”探し回るしか方法が無いという不便さが今も昔も変わりない。

しばらく留まったのち市山を離れ、新天城トンネルを目指す。途中、国道414号線でいつも気になっている「出水橋」に立ち寄る。ここは、砂防ダムが・・・、と言うことでは無くて沢の水が道路を跨ぐような感じで越流していることが多い箇所だ。まさしく名前の通りの“出水”なのだが、今回の台風で沢の水が土砂を含んで越流するなどして被害が出ていないかと心配であったため、こちらをチェックポイントとし、立ち寄った。思いのほか、とくに目立った被害も無く安心する。その後は、新天城トンネルを抜け、河津町に入ってからも同様、目立った被害は見られずスムーズに堰口川のある東伊豆町まで行くことが出来た。

市山丁字路。
嵯峨沢橋から上流部。まだ水量が収まっていない。
旧天城湯ヶ島支所。さらに昔は天城湯ヶ島町役場。
出水橋。橋では無く奥側の林道入り口付近が越流しやすい。

最も渓畔林の元気な時期

谷止工の現場に入れたのは正午すぎであった。ここは前回、3月の砂防ダム行脚の記事「また今日も雨降り」で来て以来の再訪である。記事によれば前回来た時はレインスーツを上下に着ていたとあるが、今回もまた同じようにレインスーツである。今日はこのスタイルで丁度よい感じだが、これが1~2週間前であったら暑くて堪らなかったであろう。一夏を超えて季節は秋となり、また春の頃の気温が戻ってきたのだ。と、ここでふと考える。前回来た時と同じ点があるとすれば、服装のこと。前回来た時と違う点があるとすれば、それは森の状態。3月のこの場所は、上から多くの針葉樹が樹冠で覆ってくれている状態であったが、その樹冠よりも下の部分が今よりもスカスカで、そのスカスカの隙間から多くの光が縦横無尽に降り注がれている状態であった。今日とは明らかに違う状態であった。今日は、前回と同様、晴天に恵まれること無く空からは「白い」光が差し込む状態であるが、その時とは違い、歌がうまく歌えている。台風の風によってちぎり取られた枝葉は道路上に散らばっているが、それ以外の多くは見事、台風の猛威に耐え抜き、木から、枝から元気な緑色を見せてくれている。
―今は、一年の内で最も渓畔林の元気な時期である。―
歌というものに無くてはならない“詩”。その詩の世界に深く入り込んでいくためには、渓畔林のもたらす暗がりは欠かすことが出来ない。渓畔林が一年のうちで最も元気なのであるから、それによって形成される暗がりも一年のうちで最大規模なのだ。その最大規模の暗がりの中、今、自分は歌えている。
今日の日の砂防ダム行脚は大成功であった。大成功にいくように導いてくれた森の木々に感謝したい。

白田橋より。画像右端に注目。
ラジオでは、避難指示と言っていたので相当凄かったのだと思う。
林道上を覆うスギの葉
落ちている葉をしらべる。
どうやらこれはバクチノキの葉のようである。
堰口川脇の谷止工