呪文を唱える合唱曲〈前編〉

鮎の歌 合唱曲
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nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

「鮎の歌」という合唱曲がある。昔は小学校の合唱団なんかがよく歌っていた曲であったそうだ。

曲は大変美しいピアノ伴奏で始まる。〔川の流れはうたう〕と始まり、鮎の歌のタイトルよろしく、鮎の泳いでいる川を想起させる。続いて、〔夜明けの歌を うす紫の〕とつづく。そして〔川の流れはうたう〕と、また繰り返される。今度は〔川ぞいの町 霧に濡れてる山の町〕に変わる。

田舎の、里山集落の田園風景が思い浮かばれる。

呪文は突如として

呪文は突如としてはじまる。

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

実際に演奏がなされた会場で聴いた人たちは、なんだ?これ?となる。(私は経験してないが・・・。)合唱団の発表だと聞いて、体育館に集められた児童や先生方は呪文を聞き、その異様さ、異質さにびっくりして、うつむいていた顔を一様に上げる。

呪文の部分は突如として始まり、けっこう早口で歌われるため、聞き取ることが出来た者はその会場でほぼ皆無。くだんの呪文が終わったあとも、曲を聞き続けていると何度か早口言葉が出てくる。

その度に???となりながら、さらに聴いていくと、〔川をのぼることだけが 川をのぼることだけが 鮎 鮎 鮎のいのち〕とくる。

―あぁ、やっぱり鮎の歌じゃあないか!―

その後は冒頭の〔川の流れはうたう〕が再び登場したりして、最後は〔若い いのち 鮎 鮎 ああ 鮎の歌〕で曲は閉められる。

昭和50年代、60年代、平成1ケタの頃はコンクールなどでよく歌われていたらしい。

髙根神社

呪文の謎を調べる

さて、くだんの

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

であるが、漢字変換すると、

〔猫越 火の沢 船原 そして二の小屋 皆沢 吉奈 修善寺口の桂川〕
となる。

なんと伊豆地方の地名が多数!これじゃあヨソの人はわからないでしょ。しかも早口で。
また、歌う側の意図としてはちゃんと伝えているつもりでも、実際は言葉の子音がうまく響いていなかったりするから、
エッコ イノサワ ウナバラ!みたいに聞こえるはずである。

“呪文感”極まりないだろうと・・・、会場で聴いた人たちは。
ちなみに、

〔猫越〕とうたう前の段階で、
〔狩野川の本流にそそぐ流れは〕
という部分がある。かなり重要なヒントになる部分を省略してしまったが、実際のところ、こちらも呪文の部分同様早口で歌われるため、これまた聞き取りづらい。

ローマ字で読みづらかったけれど解かっていたよ。という往年の合唱ファンの方は?

私としては、ほとんどの方がこの
関根栄一作詩、湯山昭作曲「鮎の歌」
について知らなかった。ということを前提として、書かせてもらった。

さて、そんな豪華タッグ(なのですが・・・、)による名曲であるということが解ったところで、ふと疑問が浮かんでくる。これは伊豆地方の地名にかなり詳しい人でも、思うことであろう。

「猫越と船原と吉奈、桂川はわかるとして、火の沢ってなんだ?皆沢ってなんだ?二の小屋?沢?川?聞いたことねえぞ?」

狩野川。画像は鮎釣りの名所である通称「松下の瀬」。先月撮影。

火の沢について

火の沢こと火の沢川は伊豆市上船原というところにある。土肥峠越えの道、伊豆市下船原の国道136号線に「出口」三叉路から西進して入る。もしくは「月ヶ瀬IC」交差点から下船原トンネルを通って同じく西進すると、「伊豆極楽めぐり」の看板の伊豆極楽苑がある。

伊豆極楽苑を過ぎ、しばらく行くと右側に髙根神社という神社が現れる。それも過ぎてセブンイレブン天城湯ヶ島船原店を見ると、火の沢川はもうすぐそこにある。どんな沢かと言えば幅1メートルほどの非常に狭い小川を見ることが出来る。

ちなみに鮎の歌が初演、つまり一番最初に演奏されたのは昭和47年。その昭和47年当時、この火の沢川付近に何があったのかということを知るためには、火の沢川を通り過ぎて少し行けばよい。当時からその場所に存在していた「船原棧道橋」という棧道橋(道路が崖っぷちでも通行できるようにした橋)を見ることが出来る。

そしてこの船原棧道橋を基点としてその手前、奥側にある宿泊施設が「船原温泉」に属する宿になる。例えば奥側の船原館は当時もその一族の経営で同地にあったし、手前側の「山あいの宿うえだ」もその前身の旅館が当地にあった。

また、船原館よりさらに奥側には伊豆中央の巨大リゾート「船原ホテル」が当時はあった。現在はその施設の一部が日帰り温泉浴場「湯治場ほたる」として残っているが、昭和47年時はその経営年鑑のかなり後期ではあるものの、純金風呂と広大な敷地でその名を馳せた有名なリゾート施設が当地にはあったのだ。

したがって、歌の中で〔船原〕と呪文のように唱えられるが、その言葉の持つ影響力というのは昭和47年当時と現在では異なると考える。当時は〔船原〕と言っただけで多くの人々がその巨大リゾートをイメージしたに違いないはずなのだ。

呪文を唱える合唱曲〈後編〉に続く

火の沢川。国道沿いに目立つことも無くチョロチョロ流れている。
鮎の歌 合唱
土石流危険渓流の看板
火の沢川(右端)はいったん船原川に合流して狩野川へ。
船原棧道橋
船原館
旧船原ホテル裏の砂防ダムにチャレンジ。
「船原ホテル」の字を発見!
当時から残る電灯。
船原川の砂防ダム

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