河原小屋沢

まずはテルメいづみ園前からスタート

今回は伊豆市南西部、猫越川支流河原小屋沢でのエピソードを書いてみようと思う。

5月18日、快晴の午前8時。まずは伊豆市湯ヶ島「テルメいづみ園」前にて、猫越川のようすをうかがう。
水量は5月らしくたっぷりと流れているのがわかる。夏モードの渓といったところだ。

川幅は冬の頃より広く、わずかばかりになった左岸のボサには二人ほどの釣り人が見える。振る竿は長く、さてはアマゴをエサで狙っているに違いない。
ゴロゴロと転がる大きな石の下流側には、水の落ち込みによってできた深い淵があり、そんなところにアマゴは着いているのであろう。

身を隠すのはアマゴに同じく人間の側もという関係性で、厚い層の水を隔ててなるべく気配を悟られぬように静かに釣りをしているのがわかる。

そう、静かに・・・、

無風。

今日もまた風が吹いてないではないか!

いづみ園前の二百枚橋は、桁から水面まで10メートルほどはあろうかというちょっと背の高い橋なのであるが、この高い橋の見晴し台の上に立っていて、吹き抜けていく風の存在がまったくといって感じることができない。

目立っておもて側に立ててあるわけでもないが、いづみ園のなんたるかを示した「日帰り温泉」ののぼりも揺れず靡かず。ピタリと止まったままで、まだまだこの時間は開店前ですよとでも言わんばかりの有様だ。

期待して家を出てきたはずであったが、風が吹いていないようであれば状態が良くない。
もう5月も中盤を過ぎて、いよいよ夏シーズンの幕開けに入った。今日はただの平凡な一日にあらず、スタートダッシュを成功させなければならない大切な日である。

なにがなんでも良い印象で終えたい。

ふたたび車に乗り込み上流を目指した。

猫越川。二百枚橋から。
二百枚橋
テルメいづみ園

二百枚橋から

二百枚橋から西へ400メートル。水抜橋を渡って丁字路を左折。それから道なりに2.5キロほど進んで猫越集落最南端の民家を過ぎると、道路はそのまま林間へ。林間入ってすぐのところに通行止めの看板が現れるので、車はその通行止め看板の手前、道幅の広くなったところに駐車した。

車を降りて入渓の準備をする。ウエーダーを履き、上半身にはフローティングベスト、自作メガホンを背負って、手には登山用のポールを握った。

車を駐車したすぐ下の谷には猫越川が流れている。本日入渓したいのは、この猫越川ではなく支流となる河原小屋沢だ。猫越川と河原小屋沢の合流点は現在地よりも下ったところにあるので、まずはいままで車で走ってきた道を戻るようにして進み、150メートルほど行ったところで右に折れる。

折れたすぐ先には「猫越川橋」を見ることが出来るので橋に向かって進む。

堤体までの道順

イロハモミジ

午前9時、猫越川橋をわたる。

相変わらず風が吹いていない。

橋の下からは何本もの木がニョキッと生えていて、それらの木の枝はちょうど橋の欄干の高さまで伸びて、手に取るようにして何の枝かと見て確かめることが出来る。

イロハモミジ、ヤマグワ、ヤマザクラ。橋の上に立つと位置的にはちょっと低くなるイロハモミジの数百の葉は、橋桁にベタベタ絡みつくようにして伸びている。

窮屈そうにに絡みつくその姿はじつに収まりが悪い。今この場所に風でも吹いてくれようものなら、この状況から解放されてユラユラ揺れたり身動きが取れるのであろうが、この無風ではそうもいかない。

次の風が来るまで辛抱だ。

橋を渡りきると道はS字カーブになる。このS字カーブを抜けるといよいよ河原小屋沢の谷の林道となる。林道にはちゃんと名前が付いていて「猫越支線林道」の看板を見つけることが出来る。

しばらく歩き、猫越川橋を渡ってからちょうど15分後の9時15分。目的の堤体に到着した。

猫越川橋その1
猫越川橋その2
猫越川橋その3
S字カーブ付近
猫越支線林道
空は快晴。
猫越支線林道から見た落水

とりあえず歌ってみる

本日入る堤体の名は「洞川No.9玉石コンクリート堰堤」。銘板によれば昭和40年に作られた堤体だという。まずは堆積地に乗って風を計測する。

無念にも風速計が示した値は0.0m/s。

堆積地を離れ、今度は堤体前に向かって慎重に降りる。堤体が美しい。
水は右岸側、左岸側ほぼ均等に湛水で落ちていて、池状になった落下地点には白泡を立てながらきれいに着水している。

さらに堤体前の空間は非常に旺盛な渓畔林に囲まれ、木々の葉が所狭しと付いて太陽の光を受けている。その割合は、上方見上げたときにほぼ全天という評価で、ゲームを行うのには最高の暗がりを形成している。

まぁ、とりあえず・・・。

とりあえずということでメガホンをセットし、声を入れてみる。

洞川NO.9玉石コンクリート堰堤

データ

声を入れてみる。つまり声を「入力」してみる。

声を入力しているという事実に間違いは無い。しかし、不満が残る。問題がある。なにが問題なのか?

問題は「入力」の結果がきちんと帰ってくることも無くどこかで消されてしまっているということだ。
こちらは酔っ払っているわけでは無い。気絶しているわけでも無い。しっかりとした意識の中で確実に声というデータを入力し続けているはず。であるが・・・。

どうやらその入力したデータは、消されに消されて相手に影響を与えることはおろか、ただのそのまま返送さえもしてもらえないという状態になっているのである。

これでは何をしに来ているのかわからないではないか!

過去に経験した甘い思い出が蘇る。甘い思いをしたその日というのは、入力したデータというのがきちんと帰ってきていた。

ドカンドカンと絶え間なく落ち続ける落水相手でも、キリキリになりながら、それでもちゃんと帰ってくるものがあって自分の耳に届いていた。そして、そんな日というものは風速計を取り出して堤体に平行にかざすと、本体の羽根が勢いよくグルグル回っていたような記憶がある。

それではと風速計を取り出す。

・・・、

羽根はピタリと止まったままだ。

羽根はピタリと止まったまま。

出した答えは二つ

結局、正午前までのおよそ2時間、堤体前に立ち続けたが風の到来は無かった。

いったん退渓し、車に戻る。昼食を摂ったあと、考えにふける。一体どのようになれば堤体前で歌ったときに声を響かせられるのかと。
出した答えは二つ。

①風が吹くようになること。

②風が吹かないというコンディションのなかでもきちんと響かせられるメソッドを手に入れること。

①については、過去の甘い思い出からそのように変化することを期待したのだが、ただ、これについては自分自身の力ではどうすることも出来ない。風が吹くかどうかということについては自然が決めることなので、運に身を任せるほかない。

②が問題になってくる。②については考えればどうにか成りそうな気がしてくる。ここでいいアイデアが生まれて来さえすれば、それを使って円満解決で全てハッピーだ。風の無い日だってもう完全に困らなくて済むのである!

・・・。

深く考え込むが・・・。だめだ。

いろいろ考えたら疲れてきた。意識が遠のいていく・・・。

オニグルミ(猫越支線林道にて。)

Im Haine

午睡から覚めた。腕時計を見ると午後の1時40分。ふたたび準備をして猫越川橋に向かう。

!!!

風が吹いているのがわかる。猫越川の谷は間違いなく風が吹いている。

再び猫越川橋をわたる。再びS字カーブを抜けると河原小屋沢の谷へ。ここでも風が感じられた。

午後2時15分、堤体に到着。午後もまた、堆積地で風速を測ってから堤体前に降りる。太陽はもうすでにかなり左岸側に片寄ってしまっていたが、快晴であることは午前中と変わらない。

メガホンをセットし声を入れてみる。

目の前に対峙する堤体の落水は午前中のそれと比べてもほぼ変わっていないことが見てとれる。しかし、連続するノイズ音のなかにあって、わずかに自分自身の声が響いているのがわかる。

歌った曲は、シューベルトのIm Haine D.738。
この曲は、

Sonnestrahlenとか、

Durch die Tannenとか、

フレーズごとに―nenと、韻を踏むところに特徴があるが、まさにこの韻の部分を響きとして聞き取ることが出来る。
フレーズの後半部分が目立って聞き取れるというわけだが、逆に、

Durch dieとか、

Wie sieといったフレーズの前半部分については、午前中同様、うまく聞き取ることが出来ない。

詩の全ての部分を響きとして聞き取ることが出来ないのであるが、そんなことは私は気にしない。落水がドカンドカンと攻めてくるような音環境の中で、音楽をかろうじて形成させるこの遊びが堪らなく好きだ。

例えるなら、ネコとネズミのけんかぐらい違う。

ネズミは自分の体の何倍もあるネコから引っ掻かれ、噛みつかれ、パンチされで一方的な展開の戦いになっているが、そんななかでも自らの誇りと自信にかけて相手に飛びかかり、渾身のひと噛み!反撃に出るのだ。

一つの生命体として、精一杯やる生きざまを見せることに価値がある。

戦っているという感覚で挑めばよい。ドカンドカンと轟き続ける落水ノイズを受けながらも自分自身を表現することに、この音楽の醍醐味はある。

午前、午後くらいでは水量に変化は無い。

退渓

結局、午後4時ごろまでおよそ2時間弱ゲームして退渓することにした。まだまだ日没まで遊べる時間があったが、午後の状況変化の好転という感動体験により、たった2時間でお腹いっぱいになってしまった。

午前と午後、風が吹くか吹かないかで大げさに言えば天国と地獄を味わったわけだが、そんな風に自然の気まぐれでプレーヤーの活動を掻き乱されるのもまた、この音楽の楽しさなのである。

満足感とともに帰路に就いた。

風速計。堆積地にて。
風速計。堤体前にて。
方位は210度。
立ち位置からの距離
渓畔林のようす
全天を覆い尽くすほど葉の割合が高い。
右岸側のヒノキ林。これが響きの手助けとなる。
立ち位置の目印となるリョウブの木
リョウブの葉
立ち位置は堤体に対して直角に交わる位置がよい。

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