つづいて〔二の小屋〕について。二の小屋とは二の小屋川のことで、こちらは伊豆市吉奈、吉奈温泉付近を流れる。“付近”というよりさらに解りやすく表現させてもらえば、
二の小屋川は吉奈温泉“内”を流れている。
吉奈温泉には現在、そして当時も「さか屋」と「東府や」の2大旅館があり、両旅館は県道124号線を挟む形で向き合うようにして玄関を構えている。その県道124号線から一本北側に入ったところの狭い道路沿いに二の小屋川は見ることが出来る。
こちらもまた火の沢川同様、幅1メートルほどの小川だ。現在については、「土石流危険渓流」の看板が立てられているあたりも共通している。
位置関係的に両旅館に大変近く、「これはウチの旅館庭園の遣り水です。」と言われても、不思議じゃないくらいのところを流れている。
吉奈温泉内を流れている。という書き方をしても全く問題の無い距離感だ。
そして、二の小屋川は最後、吉奈温泉のシンボルスポットの一つ「登橋」下流側すぐのところで、鮎の歌の〔吉奈〕こと吉奈川に合流しているあたりも火の沢川によく似ている。両者とも狩野川には直接流れ込むのではなく、船原川や吉奈川を介しているのだ。
どういうわけか皆沢を挟む
〔二の小屋〕と〔吉奈〕はこのように、吉奈温泉と密接な関係にある。そんな吉奈温泉ヒタヒタな二つのワードに挟まるようなかたちで、〔皆沢〕は何故か?登場する。
じつはこの皆沢について、狩野川支流の河川としては2本存在する。1本目は狩野川東岸、伊豆市矢熊を流れる下り沢川のこと。別名:皆沢川。もう1本は狩野川西岸、伊豆市門野原を流れる皆沢川(みなざわがわ)のこと。
私個人の見解として有力なのが、伊豆市門野原の皆沢川。皆沢川のある伊豆市門野原は吉奈温泉のある伊豆市吉奈に隣接する大字で、一本の山道でつながっている距離的にも大変近い集落だ。
前述の県道124号線をさか屋、東府や方向に向かって走ると、それより以前のところに東府やの日帰り温泉客用駐車場があるが、その駐車場手前の丁字路を南に向かって左折し、小高い丘を少しのぼり下りすると、一本南側の谷に出ることができる。
この谷を流れるのが、皆沢川。小高い丘を越えるのはさほどきついことでは無く、谷も谷というほど深いものでは無い。お散歩コースというレベルの山越えである。
詩人の関根栄一が取材時に、この小高い丘を越えたのかどうかは定かではないが、少なくとも狩野川東岸という、全くあさっての方角にある伊豆市矢熊、皆沢川をこの並びにもってくるというよりは、吉奈温泉にほど近い本川を入れ込んでくるということのほうが自然である。
消去法的に言って、吉奈川と隣り合った方の皆沢川を言っているのだと判断したということ。ちなみに、狩野川東岸とか狩野川西岸とかいう言い方をしたが、くだんの呪文部分のトップにある〔猫越〕と一番最後にある〔桂川〕も狩野川西岸に属する。
これらもまた、まず猫越のワードの元になった猫越川は湯ヶ島温泉に隣接し、桂川は修善寺温泉に隣接する。さらに下衆で余計なことかもしれないが、皆沢川の流れる伊豆市門野原も嵯峨沢温泉がある点について付け加えておく。
ヒステリー
ここまで温泉、温泉と散々書かせてもらったから、もうお気づきになったことと思う。
狩野川の本流にそそぐ・・・。なんて言っているけれど、一連の呪文のような詩の部分は
・・・、暗に伊豆の温泉を宣伝しているのでは?
それが意図的な事なのか、偶然的な事なのかということについてはわからない。しかし何者かのように、この歌の詩に興味を持って一本一本の川や沢を調べ、腰を上げて行動した暁には、最終的には「鮎の歌」の導いた温泉地へその者は立つことになる。
そこには温泉宿や土産物店という商業施設が待っていて、「お客さん、旅の疲れにひとっ風呂どうですか?」とか「美味しいお土産ありますよ。」なんて訴えてくるのである。そうなってしまったら・・・?
その流れに身を任せ、現地の湯や美味しいものを満喫すれば良いではないか。まさに「だまされたと思って」リアルな旅のおもしろさがそこにはあると思う。
「お~い、〔狩野川の本流にそそぐ流れ〕だったら、流域で長さ最長の黄瀬川とか、東洋一の湧水量と言われた柿田川があるし、三島市内の合唱団委嘱だったら大場川や境川も必要だら?」などというクレームはここでは受け付けない。ただただ湯に浸かって、心穏やかに時間を過ごしてほしいと思う。一説には船原温泉の効能の一つには「ヒステリー」というものがあるらしい。
「ヒステリー」に覚えのある音楽家は、どうぞご利用くださいまし・・・。
日本全国どこでも楽しむ事が出来る
詩というのは文学の一種である。その文学の世界にもきっとトレンドというか、流行みたいなものがあるのだと思う。
高度経済成長も終焉して以降の昭和47年。当時は私の生まれる前だが、その頃からすでに「都市開発だけで無く、田舎の鄙びた風景も大事にしていこうよ。」といった種の動きがあり、様々な媒体を通じて各地の田舎の風景や古い町並み、その中の商店や旅館が宣伝されていたようである。文学の分野では実在する地名、温泉地、温泉宿を物語に組み込むということが流行って、「鮎の歌」もそういった流行に幾らか影響を受けてしまったか?と思う。
いやいやそんなことは無く、これは純粋に、詩人が自分の足で歩き、自分の目で見て確かめたものだけを作品中に取り込んでいこうとした結果、特定の地域が集中的に書き込まれてしまったのだ!と主張するか?
私は関根栄一の書いた「景色がわたしを見た」や「もえる緑をこころに」という作品が大好きである。したがって、これ以上の詮索はやめておこうと思うが、詩人の名誉のためにもこれだけは言っておきたいということがあり、それは「鮎の歌」に関して、地名という、実在する固有名詞を用いたのはくだんの呪文の部分だけであるということ。
鮎の歌は正式には「合唱組曲鮎の歌(全5曲からの構成。)」の5曲目にあたる曲で、呪文の部分以外はすべて組曲全曲通して普遍的に通じる言葉、つまり日本全国どこでも当てはめて考えることができるような景色、動物、植物をうたっている。
これならば、この歌を日本全国どこでも楽しむ事が出来る。
そして日本の景色を詩で歌うという行為に関して、私の知るかぎりでは、関根栄一の右に出る者はいないと常々思っている。この大詩人が書き残してくれた詩の舞台に日常的に接し、砂防ダム音楽家として活動出来ている今の状況については大いに感謝し、幸せをかみしめていきたい。
今回、鮎の歌のことについて書こうと思ったのは、最近起こったある出来事に基づいているのだが、世の中がどのような状況に変化しようとも、愛する歌には残り続けていって欲しいと思っているところである。合唱の曲というのは決して簡単なものでは無いが、人々を感動させる力を持っている。
郷土の美しい自然を歌った愛する歌を残していくために、合唱という素晴らしい文化を残していくために、これからも沢を登り続けていこう!
いつまでも呪文を聴く事が出来るように。