昔の人はよく歩いたのだなと。

スタート地点。

3月12日は長野川上流域に入った。

午前8時過ぎ、車の中でスマートフォンの画面をタップする。電波は通じていることが確認出来た。本日は、夕方までに電話を一本入れておかなければならない用事があったので、まずはその件をここで済ませておいた。

電話の用件はあまりノリ気になれるような内容では無かったのだが、早めに終わらせることが出来て良かった。朝では無く夕方、山を降りてから連絡しようかとも思っていたので、これで焦らず、ゆとりを持って行動が出来る。

危険リスクを一つ減らせた。

それにしても、伊豆市湯ヶ島(長野)の林道最奥地から東京都内のオフィスビルに向けて業務連絡を行うという“スーパーギャップ電話”を体験出来て良かった。
自身の生まれた頃には、ほとんど普及していなかった携帯電話であるが、技術が発展し、普及し、今は一人一台という時代。山奥と都市部をつなぐ技術は今後もさらに進歩していくことと思うし、そしてそれは何よりも山奥で歌を楽しむという砂防ダムの音楽にとってプラス要素でしか無いと思っている。

今後の技術進化によっては、野外での芸術活動に、革命のような出来事が起るのでは?と期待しながら、今日もスマートフォンを見つめている。

入渓点右俣。

遡行をスタート。

午前9時に遡行をスタート。地理院地図によれば今回遡っていった先には二重線が一ヵ所、ほかに水の淀みで表した堤体が二ヵ所確認出来ている。標高およそ650メートルからスタートして、標高1000メートル付近にある岩尾(いわび)支線林道までの区間を新規開拓する予定だ。

スタート直後にある落差3メートルほどの小滝を超えて進む。沢よりだいぶ高いところには収穫用のモノレールが走っているが、どうやら現在は使われていない模様。倒木がドスンと乗っかった状態から判断して、放置状態にされている廃線軌道だ。この廃線軌道が意味することとしては、これより上流部にワサビ田があるということ。そしてそのワサビ田が今は使われなくなった“廃田”である可能性が高いということだ。

廃田であるかどうかは登ってみないとわからない。もしかしたら、昔の人のように歩いて通っているということも考えられる。伊豆半島は本当に本当に沢の奥地でワサビを栽培していて、驚かされることが少なくない。こんな山奥だれも来ないだろうと思っていたところ、突然現れたりすることが少なくない。現役のワサビ田の場合もあるし、廃田のワサビ田の場合もある。

いずれにしても、ある一定時期、その場所にある農家がワサビ栽培のために通い詰めたという事実がわかるのだから、これは敬服に値する以外なにものもない。ワサビを栽培する事そのものも本当に大変なことであると思うが、その前段階としての必然、まずは石垣作りの重労働があることと思う。夏の台風にも耐えられるように、大きな石を運んで組み上げた手造りの石垣。ワサビ田の主(あるじ)が丹精込めて築き上げた魂のこもった石垣。私自身においてはその上を時々歩くことがあるが、踏みしめる第一歩目はやはり躊躇をするものだ。

先人が苦労して積み上げた石垣の上を歩くという行為が非常にためらわれる。どこからか、私のことを見ているかな?と思いながら歩くし、本当に失礼の無いように、でも先人たちの作ったその文化遺産をよりダイレクトに理解するため、しょっちゅうありがたく利用させてもらっている。

今回は無かったが、現役のワサビ田。

青が水色に見え、

午前10時30分、ワサビ田の廃田が現れた。畳石式と呼ばれる階段状になったワサビ田だ。これより以前、遠目に発見した時には防風ネットの青が水色に見え、堤体発見か?と焦ってしまった。

防風ネットが破け、ダランと垂れ下がっている光景は見ていてやはり少し気持ちが悪い・・・。

沢との境目となる石垣のところどころは風雨によって破壊され、その上を歩くのはどう見ても危険な状況。ワサビ田の一番山側の端を歩き続けた。ただ、こんな状況でもワサビ田本体への導水管はきちんと機能しているようで、水はチョロチョロと流れ続けている。遡りながら、これまたあまり気持ちの良くないドロのようなそれに覆われたワサビ田を見続けながら歩いていたのだが、ふと山側に目をやれば、なんとスタート地点で確認し、その後いったんは離れていたモノレール軌道とここで再会することが出来た。

そこからは、沢、ワサビ田、モノレール軌道の三本に沿って進み、午前11時前、最初の堤体前に到着することが出来た。

画像右側にあるのが廃田。奥には格子状鋼鉄製の堰堤とケヤキの大木。

ワサビ田農家が毎日見ていたもの

堤体は格子状に組まれた鋼鉄製、堤高は最下部から計測しても6メートル程度とさほど高さはない。特に印象的なのは堤体前のすぐに樹齢???年もののケヤキの木が圧倒的な存在感と共に鎮座していることであった。また、その大ケヤキのすぐ右岸側には非常に美しいミツマタの木が植えられている。樹勢が果樹園の樹木のようにきれいに整えられていて、なんといっても花が咲いていて彩り豊かであった。

ここのワサビ田農家は毎日これらの木を見ながら、朝から晩までこの地で汗を流し続けたというのであろう。その後、歳月は流れ、木はここに居続けたが、農家は残念ながら去ってしまった。私自身、大きな空虚感に襲われたが、堤体の落水が近くにいてくれて良かった。「この沢の水だって恒久あるものでは無い。この水の流れも時の流れも現実はこうだ!」と誰かに教えられたような気がした。

午前11時20分、鋼鉄製の堤体を巻いた後さらに30分ほど遡れば、今度は同サイズの重量コンクリート式堰堤が現れた。これは上流部からの土砂が多いようで、左岸側の袖天端から直接落水してしまっている箇所が印象的であった。その堰堤も巻いてさらに二俣があって左俣側、見た目上だとけっこう高く、しかし6メートルほどの堰堤を見た。こちらは画像撮影したのちに離れて、右俣側を遡った。(最終目的地の岩尾支線林道はこちら側にあるため。)

ミツマタ

どこで引き返すか?の判断が難しい。

その後、遡り続けるとまたしても廃田があり、廃田を見ながら進むと一本の滝が現れた。見た感じの落差は10メートルほどもある、大きな滝であった。この時ふと時計を見れば、時刻は午後1時前。スタートからは4時間弱も歩いていた。ここで滝を巻くかどうかは非常に迷った。事前の計画では前述の通りもう一本上に(多分あるはずの、)堰堤に行くことにしていた。だが、ここまで充分歩いたという満足感もあった。どうしようか?

スマートフォンをタップして地図アプリを開くと、もう岩尾支線林道のすぐ手前まで来ていることがわかった。

・・・。ここで引き返すことに決定。それならば林道は見ない方がいいと判断して撤収を決意した。岩尾支線林道は一般車両について、入り口のゲートから先は入れないことはすでに明らかであるが、関係車両(林業系とか調査機関とか工事車両)などはおそらく頻繁に出入りしている“現在進行形の林道”だ。

ここまで、まったく人の気配の無い沢をケガせぬよう注意しながら、緊張感を保ち続けながら歩いてきたという自負があった。この緊張感が途切れるとするならば、それは今から人に出会ったり、新しく点けられた足跡(タイヤ痕)を見ることだと想像したのだ。イージーなものを見て気持ちが緩むことは危険への入り口になると判断し、引き返すため遡ってきた沢をUターンすることに。

よし、行こう。

帰り道はケガをしないように、無理をしないように一歩ずつ歩を進めた。そんな中でも2番目に見つけた重量コンクリートの堰堤では止まって歌を楽しんだりした。自分がなぜ沢を遡るのか?というその意義を自覚することはケガの防止には効果的だと常々思っているし、ただ単に堤体を前にやっぱり体が勝手に反応した。ということが大きい。

結局、往復の復路は1時間と少しで終了。スタート地点に戻ってくることが出来た。滝までよく歩いたなぁ。という心地よい疲労感に包まれていた中、ふと思った。

この沢でワサビ田をやっていた先人たちはこれを毎日やっていたのだ。

その健脚ぶりには脱帽。昔の人はよく歩いたのだなと。歴史を造ってきた人たちは、まず、歩いていたようである。毎日、体を動かして、結果を得ていったということだ。技術進化。それも良いがその前にまずやることがあるのではないか?スマートフォンを見つめ、変化に対して受動的に期待しているだけでは時代は変えられないのかもしれないと思った砂防ダム行脚であった

こんなのや、
こんなのもあるなかで
見つけた滝。
これも堤高6メートルほど。ミツマタの花がやはり美しい。
袖天端から落水している堤体。

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