台風15号が伊豆半島、東伊豆地域を通過したのが今月8日から9日の未明にかけて。その被災状況はすでに多くの報道でなされている通り。賀茂郡河津町においては、河津筏場、峰間に架かる峰橋(通称かっぱ橋)が崩落するなどの被害が出た。報道によればもともとこの峰橋は長い年月の使用によりかなり老朽化していて、通行止めという使用禁止措置が今年の春頃よりとられていたそうであるが、町の景観の一部としての“機能”をもった橋がわずか数時間、同町を通過した1本の台風によって丸ごと無くなってしまったというのは、町外在住者である私にとっても非常に残念でならない。夏場は地元では有名な「飛び込みスポット」であったというこの橋。解体工事によって人為的に取り壊すにしても、関係者にしてみれば小さな式典の一つもあげてやりたかったのでは無かろうか?また、この峰橋の上流側100メートルほどには峰大橋という県道14号線に架かる橋があるのだが、その峰大橋から湯ヶ野方面にかけては、現在進行形で数年前より歩道の拡幅工事の真っ最中である。完成した折りには小学生が安全に登下校出来るようになるらしい。
本当に狭い地域のごく限られた人にしか当てはまらないのかもしれないが、川、橋、道路を含んだ日常の景色というものが、現実と思い出との比較で大きく変わったものになろうとしている・・・。十年一昔という言葉に怖さを感じる今日この頃である。
怖さ
今回は、怖さとともに荻ノ入川支流の砂防ダムへと向かった。河津七滝温泉街を荻ノ入川と平行に遡るようにして進むと、「河津七滝オートキャンプ場」の入り口前に出る。そこからさらに登り続けること1.6キロで丁字路の分岐に出る。ここを直進すると、大好き河津町!の第1回で紹介した砂防ダムに行くことが出来る(現在は、画像の通り土砂に埋もれて通行不可。)のだが、今回の行き先は、この分岐を左折、橋を渡ったのち、1.8キロ登ったところにある。登っていく途中にはワサビ田があったり、また丁字路から700メートルの地点には煉瓦の洞遺跡(入り口)があったりする。なお、この丁字路からの道はなかなかの悪路である。文頭にある怖さとは乗っている車のタイヤがパンクしないかどうかということである。
煉瓦の洞遺跡に向かう
煉瓦の洞遺跡入り口には画像Ⓐにあるような標識がある。この標識の手前側すぐに駐車スペースがあるためそちらへ車を停め、歩いて遺跡に向かう。坂を下り、橋を渡り、案内標識に従い、蚊に刺されながら進むと屋根に保護された遺跡を見つけることができた。この屋根に保護された側が焼成窯のAで、向かって左隣には焼成窯のBがある。Bの方は屋根などで保護がされておらず雨風が吹きさらしの状態であり、窯本体にはコケが生え、シダが繁茂している。窯はA,Bともに斜面の上方向に向かって段々になっており、その段々の下部にはなにやら意味ありげな穴が開いている。意味ありげな穴とはタテヨコ15~20センチくらいの不揃いな正方形断面のトンネル様の穴のこと。これがAの場合、段々の最前列では6個、次列以降は何個構えられているのかよくわからなかったのだが同じように続いている。焼成の際必要となる酸素供給のための穴か、薪をくべるための穴なのかは定かではないが、その意匠感というか工夫にこの窯を作った先人の魂を感じた。河津町教育委員会の解説※によればこの窯含め周囲一帯は130年以上前の遺跡という事であるが、その間にどういった意図であろう?遺跡をかすめることに何の躊躇も無くスギが植林されている。窯のすぐ横に植えられた苗木が大きく育ち、恐らくは文化財として保護される際に切り倒されてできあがったであろう切り株などが普通にあるのだ。当時、この地で樹木の伐採、またそのあとのスギの植林に関わった“山の者”たちはいったいなにを考えてこのようなことをしたのであろう?猫も杓子も材生産とばかりに、とにかく木を植えまくることを最重視していたのか、それとも、木が大きく育った時、その幹、樹冠の大きさによって大事な自分たちの村の文化財を保護してやろうと考えたのか?ここは山中とは言え、伊豆半島南東沿岸部に位置する河津町での出来事である。台風はもちろん、そうで無くても雨風の強い日があるであろう。後者の思いであったのだと勝手ながら推測したい。
※以下、〔 〕内は河津町教育委員会作成の案内板より引用
〔湯ヶ野村の板垣助四朗氏の先代がここに陶土を発見、陶器の製造を始めた。(弘化2年)
耐火煉瓦の材料として山中の白土が利用され煉瓦を焼き始めた。(安政元年)
登り窯A、Bの築造と本格的な操業は明治6年以降で工部省製作寮によるものと推定される。
当時、梨本製の耐火煉瓦は良質のものが生産され好評で、各地に送られ溶鉱炉の築造にまた、洋風建築に大いに利用された。
明治16年に官営による営業は廃止されしばらく民営により行われたが、のち閉鎖された。〕
“山の者”たちの思い
前述の通り、計算すると砂防ダム本体は煉瓦の洞入り口より1.1キロ登ったあたりにある。荻ノ入川支流がいったん林道から離れ、それが再び接近、林道と平行するようになってからまもなくのところにあるので川を目で追っていれば車で走りながらでも堤体を見つけることが出来る。一年のうちそのほとんどは水が伏流していて落水する様を見ることが出来ないのだが、当日は台風通過3日後という条件のなか、見事落水する中で音楽を楽しむことができた。
自分たちの大事な村を・・・。悪路を登っていった先にこの場所はあるのだが、この砂防ダムを作った“山の者”たちもまたそういう思いを抱きながら完成までの間、ここで作業し続けていたに違いない。