釣り場のじじい

甲斐駒ヶ岳・舞鶴橋・大武川。

午前9時半を過ぎた頃のことであったか?

話しかけてきたのはじじいの方からだった。砂煙で汚れた軽のパワーウインドゥが開く。

「釣りじゃ無いんか?」

釣りじゃ無いんかて・・・。この三脚で魚を獲れとでも言うのか。

カメラと三脚。こちらが携えていたのはこの二つだけ。足元はスニーカーのままだし、釣り道具を隠し持っていそうなベストなども着ていない。

「ここは山がきれいだろっ!」

きれいだ!と、答えてやった。

「いい写真がいっぱい撮れるだろっ!」

あぁっ。

釣り場のじじいは全国共通なんだなと思った。基本、釣り場のじじいの話し方はマウント調なのである。

①人の釣り方にケチをつけてくる。

②人の仕掛けにケチをつけてくる。

③ケチには至らずともアドバイスをしてくる。

釣り場のじじい3大特長。すべてにおいてオレの方が上だ!とばかりにアレコレ講釈を垂れてくる。

魚を釣って欲しいという思いがあるのであろう。遠方よりはるばるやって来た者らに良き思い出を作って帰ってほしいという思いがあるのであろう。しかし、こちらは教えを請うているわけではないし、そもそも思い出づくりなんてものも頼んでいない。

魚が釣れない中で試行錯誤を楽しむという釣りならではの楽しみがある。

釣りそのものに集中することの楽しみというものもある。

だが、そんなことはお構いなしに釣り場のじじいは話しかけてくる。3大特長プラス、釣り場のじじいはおしゃべり好きなのである。

おしゃべりが最優先。なにかを言いたくてしょうがない。したがって、相手が釣り人で無いとわかれば今回のようにお題を変え、またアレコレ言ってくる。

誰それかまわず。釣り場で出会った人には片っ端からこの感じなのだろう。過去に出会ったじじいのなかにはスーパーじじいみたいなのもいた。政治、経済、昔話、うわさ話、ギャンブル、高校野球の話しなどどんなネタでも雄弁に語ってみせる猛者だった。

それくらい振り切っているのならば話しは変わってくる。竿を振る手を止めて、羨望の眼差しとともにじじいの話しに聞き入ることになるのだろう。

こちらも相手がじじいかと言って、だれの話しも聞きませんよという体制では無いのだ。

他人を否定するばかりのボキャブラリーの無いタイプが嫌だ。何と言ってもそんなヤツに絡まれるために、外へ遊びにやって来たのでは無い。

こういうときは、早く居なくなってくれ・・・と心の中で一生懸命念じるか、道具一切を片付け、その場から早々に退散することになるか。今日の場合は、相手が車上の人だから何とかなってくれそうだが?

まったく・・・。

ふと運転席の方を見た。じじいの腕には赤い腕章が巻かれていた。

出会った人には片っ端からこの感じなのだろう。

人財

3月1日、場所は山梨県北杜市、大武川「舞鶴橋」上流の川岸(土手)での出来事である。

釣り場のじじいはただの通りすがりでは無かった。

その名を知っているという訳では無い。顔を知っているという訳でもない。ただ、このじじいは腕章屋なのである。

じじいが釣り業界の人間であるということ。

この人らの存在によって釣りという文化が支えられているということ。

日本の渓流シーンを盛り上げるための一活動家であるということ。

いろいろな情報が一気に入ってきた。

そして今、この瞬間。自身とじじいの間に流れる空気感というものが、釣り業界にとって非常に貴重な財産になっているのだという非常に重い、なんとも言いようのない感覚に襲われた。

無理もない。

それには比べる相手がいるから。

だれかって。

もちろん、

自分自身のこと。

砂防ダム音楽家。

砂防ダム音楽家だ。

砂防ダム音楽家をやっていて求めるもの。その最大は「良い響きが得られるように」日々こうどうすることにある。

良い響きが得られるように、堤体さがしをする。

良い響きが得られるように、場所をアピールする。

良い響きが得られるように、道具を開発する。

なにがなんでも「良い響きが得られるように」なのである。

とにかく「良い響きが得られるように」なのである。

考えることの中心はいつも「良い響きが得られるように」なのである。

だから多分、

多分、失敗する。

仕事で失敗する。

単一戦略のそのやり方。

世の中が求めているものを勘違いして。いらないものを用意し、逆に、いるものを排除するという悪行をやらかす。

たしかに「良い響き」は必要なもの。ただし、それだけがみんなに求められているものでは無いはず。

お客がもとめているものの「多様」に気がつくこと。気がついて用意すること。

集客における一番重要な事項なのではないか。

釣り場のじじい。

こちらに話しかけてきたのも、重要な任務のうちのひとつであったのだ。

こんな人財がいてくれる業界をうらやましく思った。

当日の水温はわずか3度と。これでは渋い。
しかしまぁ・・・、
魚を出すばかりが釣りじゃないから。
春の訪れを感じる。それだけで気分がいい。
(ハリエンジュの実。)

食べもの

午前中。じじいと別れたあとも、釣り人たちのギャラリーとなって過ごしていた。

移動を決めたのは正午を過ぎてすぐのこと。車に乗り込み出発。ほどなくして到着したのは「みち草」。

ここで昼食をとることに。

店先には水道の蛇口があって手が洗えた。これが外遊びをしてから駆け込むにうってつけの設備。ハンドソープも付いていて、やはりありがたく利用させてもらった。

店内は改築古民家の装い。

テーブル席あり、座敷の席あり。楽に座れる方を選ぶことが出来る。

オーダーしたのは親子丼みち草セット。

メインのみそ親子丼が美味く。また、いっしょに付いてくるプリンがいい。

プリンは抜群の濃厚さとホームメイドの素朴さを兼ね備えた極上の一杯。

午後0時40分、より道を出て大津山實相寺に向かう。

午後0時50分、實相寺ちかくの「神代公園」駐車場に到着。歩いて實相寺に向かった。お目当ては当地の銘木「神代桜」だ。

木は古木。

花も葉も付いていない状態。しかし旺盛に張る枝が見事なこと。また、その向きは力強くしっかり空に向かって伸びている。

木は2000年も生きていてこの有りようだ。これは見習わないといけない。われわれ人間は90歳、100歳なんて。まだまだじゃないか。

まだまだ元気よくやっている。生きているのだから、気持ちで負けてちゃいけない。

古木。しかしこの木もまたシーズンには見事な花をつけるのだという。

今はまだ、開花前。

そして観光客の姿はなく。

静かに木を楽しむことができた。

誰に話しかけられることもなかった。

おしゃべり好きなじじいに出会うこともなかった。

みち草へ
大人も子供もジャバジャバ洗える。
親子丼みち草セット。右端のプリンがとくによかった。
神代公園(トイレあり)へ
神代桜
神代桜のえだ

移動

午後1時50分、堤体に向かう。

神代公園駐車場を出て南進すると快速道路(甲斐駒ヶ岳広域農道)に出た。

右折し、大武川上流を目指す。

「烏帽子橋」「甲斐駒大橋」の二本の橋をわたると、山梨県道614号線に差しかかる丁字路へ。

案内標識にある「大坊」方面を選択し、さらにすすむ。

篠沢大滝キャンプ場の看板前ではY字分岐をひだりななめ前方へ。大武川の左岸道路を走り、大武川砂防堰堤直前では道がおおきく右にむかってカーブする。カーブにしたがって行き、そのまま林道内へ。林道内、1.3キロほど進んだところで橋。橋の名は「篠沢橋」。

篠沢橋をわたりきり、50メートルほどで林道ゲート。この林道ゲート前は車両の転回場のようになっている。

午後2時半、林道ゲート前。車は転回場の端に駐車した。

車から降りて入渓の準備。

春の陽気。ここ数日で一番あたたかい気がする。いつもなら車から降りてすぐに防風用のレインジャケットを着込むのであるが、どうやら今日は必要なさそう。

レインジャケットはバックのなかに押し込んで歩きをスタート。

午後2時50分、林道ゲートをくぐり抜ける。

本日むかう堤体は「人面砂防堰堤」。林道ゲートからの距離はほど近く、お手軽に入渓することができる。

午後2時55分、人面砂防堰堤の左岸側に到着。

登山用ポールの補助を受けながら堤体下流すぐの坂を下りてゆく。

午後3時05分、堤体前着。

快速道路の名は「甲斐駒ヶ岳広域農道」。
大坊方面へ
山梨県道614号線を走る。
篠沢大滝キャンプ場の看板前
篠沢橋
堤体の左岸側に到着
銘板
堤体前へ

場所

堤体は主堤と副堤の二段構造。水は右岸側に偏って落ちている。

冬期の減水期。山梨県内の河川を選ぶなかで「なるべく水が多そうな場所」ということでこんかい大武川を選ぶに至った。

思惑はズバリ的中。水はたっぷりと流れている。

水は堤体を落ちた直後、堤体に対しほぼ平行に左岸側へ走る。さらに左岸の川岸にぶつかったあとには、それでもまた左岸側に近づくように流れ、ある一点をさかいに今度は右岸側にむかってカーブする。

右岸側にむかってカーブする地点には高さ10メートルほどの堆積物(転石、砂利等)による壁ができている。

豪雨にともなう増水時には相当暴れるのであろう。圧巻の壁である。

堤体前に残るいくつかの巨石もまた印象深い。こちらは激流に耐えた石たちか?ただただ感心していられる程度に、並んでいる様子を眺めることが出来る。その存在によって立ち位置に制限がおよぶなどの影響はないだろう。

巨石以外では砂、小石が敷かれた区域が広く形成され。

たて幅、よこ幅ともに広い区間のなかで、堤体との適正距離を探っていくことが出来そうだ。実際に声を入れてみながら、理想的な響きが得られる場所を見つけていければよいであろう。

主堤を横から
この山もまた!
狭まったところは圧縮されて強く流れるので注意。
堆積物によってできた壁。
過酷な環境下で発芽したのはアカマツ。
流れの向き

道具に頼ること

自作メガホンをセットし声を入れてみる。

鳴らない。

これは想定済み。立ち位置を変え、再度声を入れてみる。

しかし、これも良くない。

さらに立ち位置を変えながら声を入れていく。

でもダメ。

「声を入れる」というのは声を堤体に向かって出していることをいっている。ただし何もないところで声を出しているのではなく、メガホンを持っているのでちょうど「声を入れる」なのである。

音が響いてくれないという状況に陥ったとき。まずはがんばって声を張ってみる。しかし、それでも響いてくれないから道具に頼る。道具に頼れば解決につながる場合がある。

しかし道具に頼って解決につながらない場合もある。

何も持たないで歌っているよりは道具があるほうがいい。気持ちの面での心強さが断然ちがうからだ。

道具に頼ること。

解決のために・・・、ということでもあるし、解決されなくとも心強さを手に入れることができる。

南西向き。正午過ぎもいいかも。
風はしっかり吹いてくれていたのであったが・・・。
立ち位置の自由度は高い。

うらやましい

結局、この日は午後5時まで堤体前で過ごした。

立ち位置を変えながら声を入れていくという行為を繰り返したが、結局、響きが得られるということはなかった。

砂防ダムの音楽をやっていて、釣りというものに近いなという部分がある。

砂防ダムの音楽では「声を入れる」。

釣りでは「仕掛けを入れる」。

どちらとも「入れる」。ということで似たような感覚がある。

声を入れてみて結果が出なければ、再度「入れる」をおこなう。(再投入。)条件をほとんど変えずに入れなおすこともあれば、立ち位置を変えてから入れなおすこともある。

「入れる」という行為を繰り返す。求める結果は響いた!という瞬間である。(これは、釣れた!という瞬間に該当するか?)

どちらとも、動いている水に対する試行錯誤。

考える。試す。の繰り返し。

結果を出すためのチャレンジ。

釣り場のじじい・・・、ならぬ堤体前じじいみたいな人物は?指南役は?今日はいない。

したがって結果にたどり着くには少し遠い道になるかもしれない。

しかし、

いまはメソードがよくわからない状態で試行錯誤していることが楽しい。メソード無き時代を生きていく楽しさ。その楽しさのなかに居ることが出来ている部分もある。

メソードという宝探しに出かけている旅でもある。歌える堤体さがしの旅は。自分自身の身で宝を見つけようとするロマンがあるわけで、そこに夢中になっている。

したがって堤体前のじじい・・・は、今は要らない。

だが冒頭感じたように、いずれはそういった人物が必要になってくる時代が来るのであろう。

みんながみんな同じ性格というわけでは無いから。お客がもとめているものの「多様」に気がつき、用意すること。

時間を逆にして考えれば、

あらかじめ用意し、到来を待つこと。

集客。

戦略的に考えるなら、

人、場所、道具。

全てが欠けることなく用意されている状態が理想。

もうすでに・・・。

もうすでに全てがそろっている業界は?

釣り業界。

すごいよ。やっぱり。

釣り業界はうらやましい。

結局、堤体前が鳴ることは無かった。

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