箱根峠

6月23日は、昨年も入った黒岩橋下流の床固工群に。

今回のエピソードも日没前のゲーム。

6月23日午後5時すぎ。ホームセンターの駐車場を出発し、箱根峠を目指した。利用する道路は国道1号線。日本の大動脈だ。

この国道1号線、とにかく交通量が多い。普通乗用車もそうだが、大型車両の通行が目立つ。夕方の時間帯はさほど多さは感じないが、深夜や早朝などは何台ものトラック、ダンプ、タンクローリーいった車両が鉄の軋む音を鳴らしながら走る姿を特に見かける。“巨体”はそれに似つかぬ猛スピードで我々市民の目の前を通過し、瞬く間に遠く彼方へ消えてゆく・・・。

こちらの在住は静岡県東部地区(沼津市。ほかに三島市、裾野市、御殿場市等)。これら大型車両は、同範囲内を出発地、目的地として走っているものももちろん含んでいるが、多くは都道府県を越えて移動している長距離輸送の車である。車のナンバーを見れば、北は北海道から南は沖縄まで実に多彩だ。

北海道も沖縄も離島でしょ。どうやって来たの?

このような日常の光景は、静岡神奈川両県県境に位置する静岡県東部地区ならではの出来事だと思う。そして国道1号線(とくに上石田インター以東)で見かける県外ナンバーの車両は「箱根峠越え」に多くが関わっている。

標高846メートルにある県境、箱根峠を越えてやって来た、あるいはそこを目指してこれから坂を登るという車両の面々。
市街地で制止しているトラックのドライバーは何を思うか?赤信号が切り替わるのを待つその姿を見ていても、ほとんどそこまで想像する事は無いが、これから先にあるのは峠道。

緊張か?それとも楽観か?

大型は運転した事が無いのでわからない・・・。

こちらは普通乗用車で今から。僅かに感じる緊張感とともに、坂を登り始めた。

三島塚原IC交差点

三ツ谷工業団地

この日は、神奈川県足柄下郡箱根町を流れる須雲川、黒岩橋下流の床固工群を目指しての箱根峠。伊豆縦貫道(東駿河湾環状道路)との交差地点である三島塚原ICを通過し、以降は登り主体の道が始まる。三島塚原IC通過直後には、道は大きく右にカーブしながら伊豆フルーツパーク前を通過。

塚原橋をわたり、一番亭前、富士食堂前、三島青果市場前などを通過すると、道の左端に登坂車線が現れる。スイスイと軽快に登って行ける車用に、今までの車線を譲るかたちでそちらに逸れる。このあたりは三ツ谷バイパスと呼ばれる区間である。

大型車両の通行も多い国道1号線なだけに、バイパスはなるべく歪(いびつ)なラインにならないよう、なるべく直線的に、カーブは大きな円を描くようにしながら上へと続く。

地元有力物流企業であるアオイトランスポートの前を通過すると、右手側には区画整理された真っ更な土地が見えてくる。このあたりは三ツ谷工業団地と言うそうで、最近では鹿児島資本の業務用食品の会社が営業所を作った。

三ツ谷工業団地も越え、馬坂口バス停を過ぎればやたらと長い直線区間が現れる。
―ここは変わったなぁ・・・。―

やさしく走ろう箱根路

大曲

変わったのはその長い直線区間の最後のほう。今までの道路はこの長い直線から大きく左方向に曲がるヘアピンカーブを介して急激な登り坂を迎えていた。どうやら直線区間でスピードを上げる車が多かったようで、ヘアピンカーブの存在を注意喚起する大きな看板や道路上の舗装が特に印象的であったが、今はそれらも消され、物々しかった雰囲気を無くしている。

左にカーブして登った先には「杉崎商店」という名の酒屋があって、その看板を見るたびにとある美人アナウンサーの顔を連想したものだったが、今ではそんなことも無くなってしまった。現在、杉崎商店方向に行くには元ヘアピンカーブがあったあたりに出来た「大曲」信号を左折して坂を登ることになる。

そして、箱根峠を目指す車は大曲信号をそのまま直進するよう変更に。信号を越えてからは山を削って作られた新区間を行くことになる。新区間の名称は笹原山中バイパス。総延長約4.3km。かなりの規模で山を削ったということは、周囲を見れば容易に分かることだが、この笹原山中バイパスはその事業着手年がなんと昭和63年であるという。

そして実際くるまが走るようになったのがめぐりめぐって今年の2月。
およそ30年以上もの時を経て供用開始に至ったまでの経緯は知る由も無い(用地買収?難工事?)が、そこに莫大な資金と人手が投入されたということは想像に難くない。

大型車両および一般車両が事故を起こすことを防ぐために作られたバイパスの新区間は想像以上に、ドデカい公共事業であったようだ。

新しく出来た大曲信号交差点。箱根峠へは直進するようになった。

インスペクション

山中城1号トンネルを抜け、笹原山中バイパスの区間も過ぎると、箱根峠までの登りはおよそ中間点越え。以降も右に左にぐねぐね曲がる道を進みながら峠を目指す。このあたりは今の時期であれば路面の(凍結の)心配はする必要が無いが、霧による視界不良が怖い。

最大に危険と感じるのは登りきった箱根峠を過ぎてからで、国道1号線が芦ノ湖方面と箱根新道に分岐する「箱根峠IC」のあたり。静岡→神奈川方面へのインターチェンジ越えは道がそれほど複雑では無いため難なく越せるのだが、反対車線の通行時、つまり神奈川→静岡方面への移動は濃霧時において格段の注意を払いたい。

現在でも一番リスクが高くなるであろうインターチェンジの合流は悲しいかな、ほとんど有効と思われる対策がなされていない。良くも悪くも信号機が無い。日本の大動脈上に信号機を付けて安易に経済活動を妨げてはならないということか?徐行運転をするなどして各自解決せよ。ということになっているようだ。

案内板を掲示するために立てられた鉄柱やガードレールの袖ビーム(ガードレールの端にクルッと付いている鉄板のこと)との衝突にも注意をする必要がある。

箱根峠ICを初めて通過する、もしくは初めてで無くとも久しぶりにここを通るというのであれば事前にインターネットというツールを利用してインスペクションしておくのも手では無いかと思った。

グーグルマップのストリートビューを利用すれば、道路の形状を把握しておくことが出来る。

ここは霧の名所。要注意。(画像は別日に撮影したもの。)

富士食堂

6月23日は午後6時40分に入渓。つかの間の歌を楽しみ、午後7時20分に退渓。

帰りは霧の発生にドキドキしながら、箱根峠ICに向かって走ったが、幸いにも、困難に直面することも無く無事通過してくることが出来た。そのまま箱根峠も越えて、笹原山中バイパス、三ツ谷バイパスと来た道を戻る。

とここで、前々から気になっていた「富士食堂」に立ち寄る。箱根に行った帰りと言えばたいてい「味の終着駅」こと次郎長に立ち寄るのだが、この日はそれより以前にある富士食堂で腹を満たすことにした。

店に入り、迷うことも無く注文したのはモツ煮定食。店にはこの店のママと、常連おぼしき夫婦がいて、その夫婦の姐さんとママがおしゃべりをしている。
やがて、料理が運ばれて来た。すると手の空いたママが話しかけてくる。

「お兄ちゃん、トラックの運転手?でも無さそうな体型だねぇ・・・。」

今日は箱根に行った帰りだと、また昼間はホームセンターで園芸の仕事をして、それが終わったあとの箱根だったと告げるとママ、姐さん共々大喜び。

「あぁ、そうなのぉ。こんど行ったら声かけるねぇ。」と。やっぱり女の人はどの人も花が好きだなぁ。
温かいモツ煮を食べながら、安心感に浸ることができた。峠を下りてきたという安心感に。

富士食堂
床固工群への道。樹木で回廊のようになっている。
コアカソ
コクサギ
フサザクラ
護岸によってコース状になっている。
堤体全景。

猫2

猫2

帰ろう・・・。その白を見て思ったのだった。

6月10日、時刻は午後7時半のこと。場所は猫越第2砂防堰堤。略して猫2。

画像の通りドカンの砂防ダムである。堤体の上流には猫越川本流と河原小屋沢(洞川)の2本の流れがあって、その2本が合流することで分厚い流れが生まれ、水の塊のようになって押し寄せた先にあるのがここの落水だ。

猫2と言えば夏の夕方、日没前に入るのが面白い。
ルアーマンが1日釣りを終えて、さあこれから帰りますという頃、こちらはウエーダーを履いて意気揚々と猫越集落の農道を闊歩する。

「おい、兄ちゃん。アマゴならもうオレが散々叩いたからスレきってるぜ・・・。」なんて言わんばかりの視線を浴びながら、堤体横の階段を目指して歩く。車は足澤橋手前の三叉路あたりに置いて、そこから5分程度上流側に行けば目的の階段を見る事ができる。

階段から渓畔林に降りて、さらに川に降りる。駐車場所からトータルしても10分ほどの行程で入れる、入渓にはお手軽な堤体である。

ツブラジイ
クヌギ
ニガイチゴ
ビワ

広い空間

そんな入渓に時間のかからない猫2なのであるが、先月14日夕方の入渓であることを閃いてしまった。もともとここは猫越集落のかなり奥地にあり、豊かな自然環境を見ることが出来るような山の中の堤体であるが、それはせいぜい“奥地”という段階であり、もう民家が全く見当たらなくなるような“最奥地”とは若干異なる。

エリアの広くは山に囲まれていて、それよりも内側、堤体に近いところは水田、休耕田、荒地が多く、日中は太陽光が(地面に対して)比較的広い範囲で降り注ぐ。また、猫2の堤体上は、両岸の岸沿いに渓畔林が茂っているものの、中央部分は数本の木が生えているだけ。ほぼ土砂で埋め尽くされていて、これまた広い空間が出来ている。

これに対し、最奥地の猫越川本流や河原小屋沢とそこにある堤体は、両岸近くに斜面が迫っており、その(どちらかといえば)圧迫感を楽しむような堤体めぐりをすることができる。

猫2はまだまだ中流域と言ってもいいかもしれない。一帯は空の方向にも横方向にも空間が長く広がっていて、しかしながら響き作りには無くてはならない渓畔林に関して、しっかり生えているというイメージを私は持っている。

先の14日も夕方5時すぎに、猫2堤体前に入ってフーゴ・ヴォルフなどを楽しみ、同7時に退渓をした。その退渓時間となった午後7時であったが、
―まだまだ全然イケるんじゃねえの?―
と正直おもった。

特に放水路天端上の空間から差し込む空の光が明るく、これならばこのあと8時台、9時台も“あの条件”を見方に付ければやれるのではないかと思っていた。 

水抜橋
足澤橋前の三叉路。画像右端ジャリのあたりに車を置く。
猫2堤体横。あたりは広い空間に包まれている。

“あの条件”

“あの条件”を見方に付ければやれるのではないかと思っていた。

ところで、以前にもここに書いたことがあるが、海の魚のスズキをルアーで釣る「シーバスフィッシング」が私の趣味だということがある。最近では回数こそ減っているものの、定期的にシーバスゲームをたしなみ程度、通って楽しんでいる。

過去にはこれにハマって頻繁に夜の釣りに出掛けることもあった。一般的に、スズキという魚は夜行性であるゆえ、どちらかと言えば昼よりも夜にこれを狙って出掛けるのがシーバスフィッシングの通例とされている。私においては、その夜の釣りで「満月の夜」に数多くの空振りを経験してきたのである。一匹も魚が釣れなかったということだ。

釣れないと分かっているのに、ムキになって挑戦し、何も釣れない釣行を何度も何度も繰り返した。そんなときは決まって、帰る頃には気も抜けて、懐中電灯も点けることなく肩を落としながら、煌々と照らす月の光のなかを家路に就くのだった。

だがそういった釣りでも、名人と呼ばれる人や、満月でも関係なく釣ってしまう釣り人というのが世の中には巨万といるそうで、それはそれは敬服に値する。その人たちにとっては何でも無いことなのであろうと思うのだが、私の場合は殊に満月との相性が悪い。

―チクショウ、満月じゃ釣れねえよ!だいたい夜なのになんでこんなに明るいんだぁ?―

「満月の夜」の空は青白く光り、100メートルも200メートルも先の水面の様子が見えてしまう。海のそれほど深くない場所では、底の方まで丸見えになってしまい、昼の海と比べてもかえって水中の謎をどんどん解き明かし、海の神秘性を希薄なものにしていった。

自分の中で「月の光」こそが全てを映し出すものだというイメージが、釣りでの経験によって培われたような気がするが、そんなイメージがあったことを思い出し、今回はそれを川というフィールドで、砂防ダムの音楽に利用してやろうと考えたのだった。

2020年5月の満月は7日だったことを同月14日に気が付いた。それならば次のチャンスは翌月6日だ!

6月6日、伊豆縦貫道。大仁料金所前。

迎えた6月6日

6月6日、午後5時すぎに沼津市内の自宅を出発。伊豆縦貫道を経由し、一路猫越川に向かった。その自宅を出る際、気になったのが空模様。空はねずみ色の雲に覆われ、とてもじゃないが満月の夜の世界など想像することが出来なかった。

それでも、これは沼津市内でのこと。伊豆半島という別地へ行けば悪天候も良いように変わってくれるだろうと希望的観測に全てを委ね、祈るような思いで車を南に向かって走らせた。伊豆中央道、修善寺道路、大平IC、旭日橋、矢熊、市山と進む間も常に、晴れることを信じて走り続けた。

途中、天城湯ヶ島のセブンイレブンに寄る。買い物の所要時間があった分、期待させてもらったが、結局入った時と出た時で空は何一つ変わっていなかった。数分程度では当たり前であろう。ワラにもすがるとはこのことか?

本当に嫌な予感しか無い。そしてそのまま車に乗り込み、湯ヶ島温泉街を抜け、水抜橋も渡ってしまった。猫2はもう近い。

橋を渡って丁字路。迷わず猫越川とは逆方向の右に向かって折れる。
―うぅ・・・、今から持越のCに肝試しに行ってくるから、ここへ戻ってきた頃には煌々の月明かりで照らしてくれておくれ。―
と、持越川方面に車を向けたのだった。

煌々の月明かりで照らされる。という前提で行動しているはずなのに、肝試しをしに行くというちぐはぐさ。支離滅裂の思考になるほど追い詰められていた。

そして迎えた時刻は午後7時半。段階的に暗さを増し続ける空が、ある一定のところでキープされるのだろうとその瞬間を待ち続けていたら、空は無情にもそのまま闇夜の領域に突入してしまった。

本当に真っ暗で怖すぎるCの前で記念撮影をしてから水抜橋に戻ったが、やはり暗すぎる。これではダメだ・・・。猫2そのものにも行く気になれず、橋を渡って引き返した。

そしてそのまま湯ヶ島温泉に行き、中止になったはずの「湯ヶ島ほたる祭り」を多くの観光客と一緒に見学した(人が多くて結局お祭り状態だった。)のち、共同浴場の「河鹿の湯」に浸かって家路に就いた。

河鹿の湯

ゲーム

それから4日後の6月10日。気象庁が東海地方の梅雨入りを発表したその日、今度こそはと猫2に入った。午後5時すぎにホームセンターを出発し、足澤橋手前の三叉路に車を停めたのが午後6時半。そこから歩いてやはり10分で猫2の堤体へ。

この日は曇りどころか雨が降っていた。6日よりもさらなる悪天候。今日はどうなるか?

とりあえずは「夕方~暗くなるまで」という時間的限定を設けて、思いきりエンジョイするつもりで入渓した。どの程度暗くなるまでかは、具体的に決めていない中であったが、なんとかなるだろう・・・。

bluetoothスピーカーの電源を入れ、フーゴ・ヴォルフを選ぶ。落水の状態がドカンだからスピーカーの音量を上げて対処する。堤体の二階にポッカリ空間が出来ていて、そこに歌を乗せてやるつもりで声を放つ。音はドカンの堤体前空間の中で微かに響いているか、いないか程度に返ってくる。

パワーバランス的に言ってこれくらいが丁度良い。これぞ砂防ダム音楽の楽しみだという力関係の中で“ゲーム”を展開した。猫越川中流域の分厚い流れの中で、自分の出せるかぎりの声を出す。大きな大きな水の塊に、自分の「歌」の相手をしてもらった。

しかしそんな一時も惜しいかな。楽しい時間はあっという間に過ぎるようで、あたりはどんどん暗くなる一方。時が止まらない。確実にせまり来る夜を待つ中でゲームを楽しんだ。

あたりが段々と暗くなってゆく。6日と同様、段階的に暗さを増し続ける空が、ある一定のところでキープされる・・・。なんてこともなく闇夜の領域に突入してしまった。

この日は堤体前で闇夜を迎えることになった。いつになったら帰ろうか?

堤体からの落水は相変わらず白く光っていた。闇夜の中でも落水は白には白で見ることが出来た。しかしその白は、おおよそ砂防ダムの音楽が出来る白とは違っていた。濃く、深く、重たい白で、昼間とは違う顔を見せてくれた。危険な白、息を止めようかという白、命を奪おうかという白であった。

帰ろう・・・。その白を見て思ったのだった。

堤体全景。

川下で遊び、川上で遊ぶ。

沼津市西浦河内を流れる西浦河内川。(十二田橋より)

6月4日午前11時すぎ、河内公民館前にて気温を測る。

29。5℃。暑い・・・。

日なたに居るのが辛い。渓畔林があるところに行こうと、公民館裏に避難を決める。

今日は公民館裏で歌うのか?

いや・・・。今日は釣りをしに来た。それはもう先月のことであるが、西浦河内川沿いで気になる看板を見つけたのだ。
「西浦河内川における魚介類採捕の制限について」

看板の内容は川の漁期を示している。アマゴ釣りは3月1日~、アユ釣りは6月1日~、うけ禁止。投網、コロガシ禁止。入漁券の記述が無い事から、入川自体については自由に出来るようだ。

看板はずいぶん以前からあったようだが気がつかなかった。

一台のトラック

公民館裏にて入渓の準備をする。普段砂防ダム行脚に使用しているウエーダーを履き、そのほか準備を整える。暑いのにウエーダーなんて履くか?と言われそうだが、大小の川石はツルツルの藻でびっしりで、その上をサンダル履きで歩き回るのはどう考えたって賢明で無い。

ここは公民館の真裏。公民館の隣には民家。滑って、転んでバシャーン!では迷惑が掛かってしまう。
道楽モノは静かに遊んでいたいのだ。

ふと見れば、公民館の駐車場に一台のトラックが入ってきた。そして駐車場のド真ん中に車を停め、サイドブレーキを引く音。えっ、漁協の人?

いやいや、車から降りてきたのはゴミ出しに来た農家風の女性。あたまには大きなリボンの麦わら帽子を被り、長袖、長ズボンに長靴、口にはマスクをしている。まさに農家の女性のデフォルトスタイル。
ここでは“農家”じゃ足りないか?“ミカン農家”の女性が正しい。

大変な土地に嫁ぎましたな。ミカン栽培は農薬が大変でしょう?

公民館裏のゴミ捨て場

入水!

女性はゴミを出し終えると、すぐさま出て行ってしまった。もう昼も近かったから農作業の合間の時間であったか?こんなに暑いのに大変だなと思いつつ、自分は今日ここでケガせぬようにと集中する。

川に入るには2メートル程度の段差を降りる必要があるため、公民館裏の護岸に打ち込んであるハシゴを利用する。今日はバケツやら、エサのミミズやら釣竿やらで道具が多い。それらを何回かに分けて運ぶとようやく川の中に降りることが出来た。

そして、まずやったこと。
入水!
ウエーダーの気密性から来る風通しの悪さ、それに伴う暑さからはようやく解放された。数分ぐらいはただただそれが嬉しくて、意味も無く水中をバシャバシャしていた。そうしていると今度は、適温ぐらいになってくれてむしろ気持ちよくなってきた。

測ってみれば水温は19.5℃。これは涼しい。上から垂れ下がる渓畔林のおかげもあると思う。来て良かった!


釣りの仕掛けをセットする。竿というよりロッドはバス用の1.8メートル。ベイトキャスティングリールを付けて、糸の先には大きめの袖針をセットする。ハリスは1号。針の上10センチほどのところにガン玉を一つ付けてとりあえずはミミズがちゃんと沈んでくれるようにする。

・・・、
どう考えてもアマゴにはたどり着けないであろう太仕掛け&ショートロッド。竿は家にあった適当なものを持ってきた。リールも同様。
港町の男は適当な釣り具で魚捕りをするのだ!という訳の分からない持論を呟きつつ釣りを開始する。

大きな川石の下のえぐれたところに狙いを定め、ミミズを落としてゆく。何も反応が無ければ次の川石の下、また次、その次とテンポ良く探ってゆく。

上から垂れ下がる木の下、涼しく快適な環境の中で水中生物たちと遊んだ。

釣果の程は、バス用ミディアムライトアクションのロッドが小物どものアタリを見事に弾き弾きで苦戦を強いられる中、なんとか3匹のテナガエビと1匹のオオヨシノボリを引っこ抜いて完結。納竿となった。

河内公民館前にて気温を測る。
川石の下を探る。
このあと川にお還りいただいた。

「市民の森」

午後3時すぎ、車に戻り、いったん内浦三津のコンビニに立ち寄ったあと、再び西浦河内を登り始める。向かう先は沼津市市民の森駐車場。ミカン畑を抜け、集落を抜け、そしてまたミカン畑、さらにミカン畑を抜けるとようやく広葉樹の森が広がり、それも抜けて市民の森駐車場にたどり着く事が出来た。

駐車場に車を停め、早速おりる。暑さもだいぶ和らいだ。気温は20℃。

まずは虫除けスプレーを肌が露出しているところに噴きかけ、しっかりすりこむ。これをやっておくことで害虫から身を守る事ができる。(一応、ここの“注意喚起”に準じて対策施したつもり。)

それからウエーダーを履き、フローティングベスト、帽子といつも通り準備する。もう夕方になってくれたおかげもあって、ウエーダースタイルでも暑く無い。さて、今から向かう先は市民の森入り口の橋から上流100メートルほどにある堰堤である。

おあつらえ沢に降りられそうなところを見つけ入渓すると、すぐに堰堤にたどり着く事が出来た。
堤高は5メートルほど。堤体の横幅を示す堤長も土に隠れて正確には分からないが、10メートルちょっとといった程度であろう。さほど大きな堰堤でも無い。

堤体の水裏(手前側の壁面)には正方形断面、長方形断面で出来たジグソーパズルのような模様が入っており、その断面の四角形に水がまとわりつくようにしながら落水をしている。

「市民の森仕様」いかにも。

設計会社、建設会社による景観配慮型デザインは渾身の力作であろうか?

さて、歌のほうであるが堤体左右を取り巻く渓畔林は幹の細い広葉樹中心に構成されており、音がそれらに絡みつくようにしてから(イメージだが、)抜けてくれる。特にジグソーパズルのような水裏はその壁にぶつかった音を横方向にも縦方向にもかなり放出するようで、一つの堤体前空間としてはかなり良く響く。

音響的には申し分ない。そして歌い手の立場として言ってもこの場所は大変に歌いやすい。

これは常々のことだが、歌というものは上手であれ、下手であれ、「歌」という一つの文化を取り扱っていると思っている。その文化の活動の支えとなる公共施設の存在は大変にありがたい。これまでキャンプファイアーなり各種ミーティングなりで多くの人々の「声」を受けてきた森に、今日は自分の歌声を受けてもらっている。


なんだかベテラン教師に自分の歌声を聞いてもらっているような安心感と、しかもそれが学校のような教育施設でやっているオフィシャル感があるところ、それがいつもの堤体と違う。たまにはこんな場所での歌もある。

リラックスしつつ、音楽を楽しむことができた。

ちなみにここは西浦河内川の上流域にあたるところ。同じ川で遊んでいた。
川下で遊び、川上で遊ぶ。そんな一日だった。

市民の森へは公式ルートで。
一帯はミカン畑ばかり
公式ルートでも見通し悪い所が多数。安全運転を。
タニウツギ
ヒメコウゾ
ガクウツギ
ミツバウツギ
エゴノキ
モリアオガエルの卵が、
べちょべちょ
堤体全景。

呪文を唱える合唱曲〈後編〉

鮎の歌 湯山昭
二の小屋川を示す看板

つづいて〔二の小屋〕について。二の小屋とは二の小屋川のことで、こちらは伊豆市吉奈、吉奈温泉付近を流れる。“付近”というよりさらに解りやすく表現させてもらえば、

二の小屋川は吉奈温泉“内”を流れている。

吉奈温泉には現在、そして当時も「さか屋」と「東府や」の2大旅館があり、両旅館は県道124号線を挟む形で向き合うようにして玄関を構えている。その県道124号線から一本北側に入ったところの狭い道路沿いに二の小屋川は見ることが出来る。

こちらもまた火の沢川同様、幅1メートルほどの小川だ。現在については、「土石流危険渓流」の看板が立てられているあたりも共通している。

位置関係的に両旅館に大変近く、「これはウチの旅館庭園の遣り水です。」と言われても、不思議じゃないくらいのところを流れている。
吉奈温泉内を流れている。という書き方をしても全く問題の無い距離感だ。

そして、二の小屋川は最後、吉奈温泉のシンボルスポットの一つ「登橋」下流側すぐのところで、鮎の歌の〔吉奈〕こと吉奈川に合流しているあたりも火の沢川によく似ている。両者とも狩野川には直接流れ込むのではなく、船原川や吉奈川を介しているのだ。

二の小屋川

どういうわけか皆沢を挟む

〔二の小屋〕と〔吉奈〕はこのように、吉奈温泉と密接な関係にある。そんな吉奈温泉ヒタヒタな二つのワードに挟まるようなかたちで、〔皆沢〕は何故か?登場する。

じつはこの皆沢について、狩野川支流の河川としては2本存在する。1本目は狩野川東岸、伊豆市矢熊を流れる下り沢川のこと。別名:皆沢川。もう1本は狩野川西岸、伊豆市門野原を流れる皆沢川(みなざわがわ)のこと。

私個人の見解として有力なのが、伊豆市門野原の皆沢川。皆沢川のある伊豆市門野原は吉奈温泉のある伊豆市吉奈に隣接する大字で、一本の山道でつながっている距離的にも大変近い集落だ。

前述の県道124号線をさか屋、東府や方向に向かって走ると、それより以前のところに東府やの日帰り温泉客用駐車場があるが、その駐車場手前の丁字路を南に向かって左折し、小高い丘を少しのぼり下りすると、一本南側の谷に出ることができる。

この谷を流れるのが、皆沢川。小高い丘を越えるのはさほどきついことでは無く、谷も谷というほど深いものでは無い。お散歩コースというレベルの山越えである。

詩人の関根栄一が取材時に、この小高い丘を越えたのかどうかは定かではないが、少なくとも狩野川東岸という、全くあさっての方角にある伊豆市矢熊、皆沢川をこの並びにもってくるというよりは、吉奈温泉にほど近い本川を入れ込んでくるということのほうが自然である。

消去法的に言って、吉奈川と隣り合った方の皆沢川を言っているのだと判断したということ。ちなみに、狩野川東岸とか狩野川西岸とかいう言い方をしたが、くだんの呪文部分のトップにある〔猫越〕と一番最後にある〔桂川〕も狩野川西岸に属する。

これらもまた、まず猫越のワードの元になった猫越川は湯ヶ島温泉に隣接し、桂川は修善寺温泉に隣接する。さらに下衆で余計なことかもしれないが、皆沢川の流れる伊豆市門野原も嵯峨沢温泉がある点について付け加えておく。

駐車場前の丁字路。吉奈温泉の看板が目印。
小高い丘の峠付近。詩人も歩いたか?
小高い丘を越えると皆沢川はある。

ヒステリー

ここまで温泉、温泉と散々書かせてもらったから、もうお気づきになったことと思う。

狩野川の本流にそそぐ・・・。なんて言っているけれど、一連の呪文のような詩の部分は

・・・、暗に伊豆の温泉を宣伝しているのでは?

それが意図的な事なのか、偶然的な事なのかということについてはわからない。しかし何者かのように、この歌の詩に興味を持って一本一本の川や沢を調べ、腰を上げて行動した暁には、最終的には「鮎の歌」の導いた温泉地へその者は立つことになる。

そこには温泉宿や土産物店という商業施設が待っていて、「お客さん、旅の疲れにひとっ風呂どうですか?」とか「美味しいお土産ありますよ。」なんて訴えてくるのである。そうなってしまったら・・・?

その流れに身を任せ、現地の湯や美味しいものを満喫すれば良いではないか。まさに「だまされたと思って」リアルな旅のおもしろさがそこにはあると思う。

「お~い、〔狩野川の本流にそそぐ流れ〕だったら、流域で長さ最長の黄瀬川とか、東洋一の湧水量と言われた柿田川があるし、三島市内の合唱団委嘱だったら大場川や境川も必要だら?」などというクレームはここでは受け付けない。ただただ湯に浸かって、心穏やかに時間を過ごしてほしいと思う。一説には船原温泉の効能の一つには「ヒステリー」というものがあるらしい。

「ヒステリー」に覚えのある音楽家は、どうぞご利用くださいまし・・・。

水垢のしっかり付いた狩野川
狩野川に流れ込む吉奈川(右上)

日本全国どこでも楽しむ事が出来る

詩というのは文学の一種である。その文学の世界にもきっとトレンドというか、流行みたいなものがあるのだと思う。

高度経済成長も終焉して以降の昭和47年。当時は私の生まれる前だが、その頃からすでに「都市開発だけで無く、田舎の鄙びた風景も大事にしていこうよ。」といった種の動きがあり、様々な媒体を通じて各地の田舎の風景や古い町並み、その中の商店や旅館が宣伝されていたようである。文学の分野では実在する地名、温泉地、温泉宿を物語に組み込むということが流行って、「鮎の歌」もそういった流行に幾らか影響を受けてしまったか?と思う。

いやいやそんなことは無く、これは純粋に、詩人が自分の足で歩き、自分の目で見て確かめたものだけを作品中に取り込んでいこうとした結果、特定の地域が集中的に書き込まれてしまったのだ!と主張するか?

私は関根栄一の書いた「景色がわたしを見た」や「もえる緑をこころに」という作品が大好きである。したがって、これ以上の詮索はやめておこうと思うが、詩人の名誉のためにもこれだけは言っておきたいということがあり、それは「鮎の歌」に関して、地名という、実在する固有名詞を用いたのはくだんの呪文の部分だけであるということ。

鮎の歌は正式には「合唱組曲鮎の歌(全5曲からの構成。)」の5曲目にあたる曲で、呪文の部分以外はすべて組曲全曲通して普遍的に通じる言葉、つまり日本全国どこでも当てはめて考えることができるような景色、動物、植物をうたっている。

これならば、この歌を日本全国どこでも楽しむ事が出来る。

そして日本の景色を詩で歌うという行為に関して、私の知るかぎりでは、関根栄一の右に出る者はいないと常々思っている。この大詩人が書き残してくれた詩の舞台に日常的に接し、砂防ダム音楽家として活動出来ている今の状況については大いに感謝し、幸せをかみしめていきたい。

今回、鮎の歌のことについて書こうと思ったのは、最近起こったある出来事に基づいているのだが、世の中がどのような状況に変化しようとも、愛する歌には残り続けていって欲しいと思っているところである。合唱の曲というのは決して簡単なものでは無いが、人々を感動させる力を持っている。

郷土の美しい自然を歌った愛する歌を残していくために、合唱という素晴らしい文化を残していくために、これからも沢を登り続けていこう!

いつまでも呪文を聴く事が出来るように。

吉奈温泉のシンボルスポット「登橋」
登橋から撮影。吉奈川と左上は二の小屋川。
こちらは神亀橋から覗いた吉奈川
皆沢川に入った。
皆沢川の堰堤①
皆沢川の堰堤②

呪文を唱える合唱曲〈前編〉

鮎の歌 合唱曲
きみは小学生かな?森山登真須のブログへようこそ!

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

「鮎の歌」という合唱曲がある。昔は小学校の合唱団なんかがよく歌っていた曲であったそうだ。

曲は大変美しいピアノ伴奏で始まる。〔川の流れはうたう〕と始まり、鮎の歌のタイトルよろしく、鮎の泳いでいる川を想起させる。続いて、〔夜明けの歌を うす紫の〕とつづく。そして〔川の流れはうたう〕と、また繰り返される。今度は〔川ぞいの町 霧に濡れてる山の町〕に変わる。

田舎の、里山集落の田園風景が思い浮かばれる。

呪文は突如として

呪文は突如としてはじまる。

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

実際に演奏がなされた会場で聴いた人たちは、なんだ?これ?となる。(私は経験してないが・・・。)合唱団の発表だと聞いて、体育館に集められた児童や先生方は呪文を聞き、その異様さ、異質さにびっくりして、うつむいていた顔を一様に上げる。

呪文の部分は突如として始まり、けっこう早口で歌われるため、聞き取ることが出来た者はその会場でほぼ皆無。くだんの呪文が終わったあとも、曲を聞き続けていると何度か早口言葉が出てくる。

その度に???となりながら、さらに聴いていくと、〔川をのぼることだけが 川をのぼることだけが 鮎 鮎 鮎のいのち〕とくる。

―あぁ、やっぱり鮎の歌じゃあないか!―

その後は冒頭の〔川の流れはうたう〕が再び登場したりして、最後は〔若い いのち 鮎 鮎 ああ 鮎の歌〕で曲は閉められる。

昭和50年代、60年代、平成1ケタの頃はコンクールなどでよく歌われていたらしい。

髙根神社

呪文の謎を調べる

さて、くだんの

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

であるが、漢字変換すると、

〔猫越 火の沢 船原 そして二の小屋 皆沢 吉奈 修善寺口の桂川〕
となる。

なんと伊豆地方の地名が多数!これじゃあヨソの人はわからないでしょ。しかも早口で。
また、歌う側の意図としてはちゃんと伝えているつもりでも、実際は言葉の子音がうまく響いていなかったりするから、
エッコ イノサワ ウナバラ!みたいに聞こえるはずである。

“呪文感”極まりないだろうと・・・、会場で聴いた人たちは。
ちなみに、

〔猫越〕とうたう前の段階で、
〔狩野川の本流にそそぐ流れは〕
という部分がある。かなり重要なヒントになる部分を省略してしまったが、実際のところ、こちらも呪文の部分同様早口で歌われるため、これまた聞き取りづらい。

ローマ字で読みづらかったけれど解かっていたよ。という往年の合唱ファンの方は?

私としては、ほとんどの方がこの
関根栄一作詩、湯山昭作曲「鮎の歌」
について知らなかった。ということを前提として、書かせてもらった。

さて、そんな豪華タッグ(なのですが・・・、)による名曲であるということが解ったところで、ふと疑問が浮かんでくる。これは伊豆地方の地名にかなり詳しい人でも、思うことであろう。

「猫越と船原と吉奈、桂川はわかるとして、火の沢ってなんだ?皆沢ってなんだ?二の小屋?沢?川?聞いたことねえぞ?」

狩野川。画像は鮎釣りの名所である通称「松下の瀬」。先月撮影。

火の沢について

火の沢こと火の沢川は伊豆市上船原というところにある。土肥峠越えの道、伊豆市下船原の国道136号線に「出口」三叉路から西進して入る。もしくは「月ヶ瀬IC」交差点から下船原トンネルを通って同じく西進すると、「伊豆極楽めぐり」の看板の伊豆極楽苑がある。

伊豆極楽苑を過ぎ、しばらく行くと右側に髙根神社という神社が現れる。それも過ぎてセブンイレブン天城湯ヶ島船原店を見ると、火の沢川はもうすぐそこにある。どんな沢かと言えば幅1メートルほどの非常に狭い小川を見ることが出来る。

ちなみに鮎の歌が初演、つまり一番最初に演奏されたのは昭和47年。その昭和47年当時、この火の沢川付近に何があったのかということを知るためには、火の沢川を通り過ぎて少し行けばよい。当時からその場所に存在していた「船原棧道橋」という棧道橋(道路が崖っぷちでも通行できるようにした橋)を見ることが出来る。

そしてこの船原棧道橋を基点としてその手前、奥側にある宿泊施設が「船原温泉」に属する宿になる。例えば奥側の船原館は当時もその一族の経営で同地にあったし、手前側の「山あいの宿うえだ」もその前身の旅館が当地にあった。

また、船原館よりさらに奥側には伊豆中央の巨大リゾート「船原ホテル」が当時はあった。現在はその施設の一部が日帰り温泉浴場「湯治場ほたる」として残っているが、昭和47年時はその経営年鑑のかなり後期ではあるものの、純金風呂と広大な敷地でその名を馳せた有名なリゾート施設が当地にはあったのだ。

したがって、歌の中で〔船原〕と呪文のように唱えられるが、その言葉の持つ影響力というのは昭和47年当時と現在では異なると考える。当時は〔船原〕と言っただけで多くの人々がその巨大リゾートをイメージしたに違いないはずなのだ。

呪文を唱える合唱曲〈後編〉に続く

火の沢川。国道沿いに目立つことも無くチョロチョロ流れている。
鮎の歌 合唱
土石流危険渓流の看板
火の沢川(右端)はいったん船原川に合流して狩野川へ。
船原棧道橋
船原館
旧船原ホテル裏の砂防ダムにチャレンジ。
「船原ホテル」の字を発見!
当時から残る電灯。
船原川の砂防ダム

箒原・長野

沼津市西部(柳沢)5月11日撮影

暑くなってきた。沼津市内の西部地域では田おこしも終わり、いよいよ田植えシーズンを迎える。

田おこしをした田んぼはよく乾かすことが重要だそうだ。これによって土の中にいる好気性微生物を活性化し、植物(イネ)が窒素を取り込みやすい環境を作る。専門的には乾土効果と呼んだりして、稲作をする上で非常に重要な作業として位置づけているそうだが、これが終われば今度は水張りがあり、代かきがあり、そして田植えがある。
農家の大変さが身にしみる。

全てはイネを最適な環境で育てるための努力ということであろう。稲作をうまく成功させるための理論があろうとも、それは自然条件の中で実現させていかなければならない。天気予報を見ながら、田おこしをする期間を決め、代かきをする日を決め、田植えをするその日に向けて苗を育てる。

世間が大型連休だと浮かれ、あちこちに出掛けている時、農業に向き合いプロとしてやるべき仕事をする。志が高くあったとしても相手は自然という中、何が起るか分からない中での仕事。プレッシャーを抱えながら、秋の収穫を夢見て圃場に苗に投資をし、汗水流しているのが農家だ。

農家の方々には敬意しかない。

荒原の棚田

荒原の棚田を見る。

5月9日は長野川に入った。その長野川に入る前、長野の集落内にあるジオスポットに立ち寄った。
ジオスポットの名は「荒原の棚田」。現場にはまだ比較的新しい看板が立っていた。

なぜここが“ジオ”なのかといえば、棚田となっている場所が、付近の山の火山活動で迫ってきた溶岩流によるものだということに加えて、長野川が運んだ土砂によって出来たものだからだという。自然活動の中で偶然的に作られた土台の上に、棚田はあるのだと看板は解説している。

ジオという自然遺産のその上に乗っかるかたちで、棚田という人工物が存在しているということが分かったが、そのことをよくよく考えればこれは非常に興味深い。ジオスポットとして認定されたもののそのほとんどは、本来人間の手が一切介入していない“自然のありのまま”というような条件があるような気がして、ここはいいの?と思ってしまうのである。

棚田という農業の舞台である以上、ある時は水の張られた田植え直後の状態であったり、ある時はたわわに実った稲穂が垂れている状態であったり、ある時は稲刈りが終わった刈りあとの状態であったりと様々に変化する。様々に変化するのはイネという植物の出来事だからしょうがないでしょう。と言っても、それは多分な人的介入を経ての結果なはずだ。

台風で畦(あぜ)が壊されたりしたら?どうする?直すのはアリ?

いろいろと疑問が出てくる。とまぁ、そんな風にいろいろツッコんで考えている自分自身をふと顧みてみると、この場所の持っている素晴らしさになんと気がついてしまう。ジオスポットというのは得てして地学などの専門家向けの解説になってしまう事が多い。

もともと火山とか岩とかそういった分野に興味を引かれている人にとっては、非常に楽しい講座になると思うのだが、ほとんどの一般市民にとっては無関心で退屈なものになりがちである。棚田というものは水田の一種であるし、それは日本中にあるものだし、なによりそこは米という、ご飯という「食べ物」を作っている舞台だからである。 

棚田の基礎となった台地は溶岩や堆積土砂なのだが、その上に棚田がワンクッション置かれたことでずいぶんと、親しみやすい、引きつけられやすいジオの解説となった。おかげでかなりすんなりと入ってくる形で勉強することができた。ありがとう!棚田で良かった。

荒原の棚田。5月9日撮影。

長野川で水温を測る

そんな荒原の棚田の画像を貼ってみて、これをご覧になり、おわかりいただけたと思うが、もうすでに水張りも、代かきも、田植えも当地は完了した状態であった。地理院地図によればこの場所の標高はちょうど300メートルほど。一方、沼津市西部は画像の柳沢もそうであるし、海抜にして10メートルにも満たないところが多い。

緯度は伊豆半島に属する伊豆市湯ヶ島長野の方が低いが、それだけの標高差また日照時間から考えれば、圧倒的に沼津市西部の方が暖かい気候だということがわかる。単純に考えて、一早く春を迎えた沼津の方こそ一早く田植えが行われるものだと考えそうなところであるが、そうではないあたりに米作りの奥深さが感じられる。

水温はどうか?水温は(もう田植えの終わっていた)5月9日に長野川で測ってみたところ、12℃ほどであった。なぜ長野川で計ったかと言えば、この地区の棚田はじめ、水田に使われている水は長野川から引き込んだ水だからである。

長野の集落よりも一段上に上がったところには「箒原」という集落がある。その箒原に堤高3メートルほどの低い堰堤があって、その堰堤が取水堰になって水を取り込んでいる。

箒原・長野地区は稲作が盛んな地域である。荒原の棚田以外にも地区の広い範囲で稲作が行われていることは実際に当地に行ってみれば分かることだが、その箒原・長野一帯の棚田、水田に水を供給しているのが長野川であり、その起点となるのが箒原の堰堤や長野第3砂防ダムなのだ。5月9日は現地で、砂防と砂防以外の目的で活躍する堤体を見てきた。

水温を測る。
取水堰になっている堰堤。滞留土砂も見られる。
半開きなのは流木を噛まないようにするためか?
農業用水で出来た滝。(画像中央)
余分な水は排水口を通じて長野川に戻る。長野橋上流付近。

美しき村

箒原・長野にいつも行って思うのは、この地域が大変に水をうまく利用している地区だということ。長野川から引き込んだ水で稲作をはじめとした農業を行っている。他の地域でもそういう傾向は見られるが、この地区の場合は少し違う気がする。

何が違うのかと言えば、他の地区の場合、川から水を引き込んでいるその多くは「個人」を単位としているケースがほとんどであるような気がする。川から引き込んだ水の配管を追いかけていくと、一軒のお宅の庭やため池にたどり着くことが出来る。

「個人」の生活のために敷設された設備をこれまで見てきたということだが、この箒原・長野については「集落」単位で大々的に利用する目的をもって水を引き込んでいる。集落としてどうすれば皆がよりよい豊かな生活を送ることが出来るかということを考え、共同して生きている。ここにいつも行くたび、そんな当地の人々の気持ちを感じずにはいられない。

「荒原の棚田」というのは、ただの棚田にあらずそんな背景を含んでいる。この棚田が人々の共同の象徴としてここにあり続けてくれるのは、傍目に見ても大変に美しいことだ。今までも、そしてこれからも永遠(とわ)に美しくあり続ける箒原・長野であってほしいものである。

箒原集落内の棚田&ワサビ田
堤高15.0mは副堤を含めた値。
アブラチャン
ケヤキ
カヤ
シロダモ
副堤だけでもかなり高い。
こちらは箒原につづく配管
長野第三砂防ダム

大好き河津町!vol.8

フードストアあおき(こちらは河津店)

晴好雨奇(せいこううき)という言葉がある。

〔晴天でも雨天でもすばらしい景色のこと。自然の眺めが晴天には美しく、一方、雨が降ったら降ったで素晴らしいこと。▽「奇」は普通とは違ってすぐれている意。「水光瀲※艶<れんえん>として晴れまさに好く、山色空濛<くうもう>として雨も亦<また>奇なり」の略。「雨奇晴好<うきせいこう>」ともいう。三省堂 新明解四字熟語辞典より※艶の字はさんずいが付く。〕

中国の蘇軾(そしょく)の詩が語源だそうだが、なんと素晴らしい言葉であろうか。晴れた日を美しいと言い、雨の日を素晴らしいという。


5月4日は雨が降った。それより以前の週間天気予報の段階から当日は雨予報。晴れてくれよと願ってもこれだけはどうにもならない。自然相手の中で楽しむ砂防ダムの音楽において天気の影響というのは計り知れない。晴れた日には太陽の光が水面を照らす。そこで山の木々や斜面が真っ黒な影を落とし、その中で歌うのだ。

いつだって晴れてくれていたほうが、いいに決まっている!

この日の出発前もそう思っていたのだった。

おい、何しに来たんだ?(谷津のネコさまより。)

どうにもならない。と言えば、

どうにもならないと言えば、やっぱり最近流行のアレ。
人と接触するな!というのだからアウトドアーマン、旅行者は堪まったものでは無い。
買い物ひとつ取ったって河津町民がするというのならまだしも、部外者となる者が安易にその中に立ち入るべきでは無いと思った。

したがって今回の砂防ダム行脚の食料調達は、自宅のある沼津市内で行うことにした。行うことにした・・・のだが、本来行こうと思っていた店がチェーンストアであったため、店舗を別にして買うことに。店の名前はフードストアあおき沼津店。なんと河津町出身のスーパーマーケットである。

創業は昭和21年、当時の賀茂郡下河津村にて。設立は昭和32年、会社名は株式会社青木商店。現在は沼津市大岡に本社があり、社名は株式会社あおき。静岡県下に8店舗、神奈川県・東京都にそれぞれ2店舗と1店舗ストアを構える。下田港や沼津港から直送の魚介をはじめ、農業県である静岡の県内産青果の取り扱いも多い。

食肉部門においては、本場ドイツで修行を積んだ担当者がソーセージを手掛けるほか、同じく酒類販売ではワイン担当が直接フランスまで買い付けに赴くなど「食」に対するこだわりは強く、各部門専門店並みの品揃えで珍種も多数。キャッチフレーズは「食文化のパラダイス」。

総菜コーナーには、パラダイス名物の一つに数えられる美味いカツ丼がある。今日もカツ丼にしようかと思ったが、それより気の向いたサバ味噌煮弁当にした。弁当と晩ご飯用の食材を買い、店を出たのが午前10時すぎのことだった。

フードストアあおき(こちらは沼津店)

自宅を再出発

晩ご飯用の食材を置きにいったん自宅に戻る。それにしても、世の中がこんな状態である中にあって、しかしながら営業を続けているスーパーマーケットには本当に頭が下がる。店が閉まってしまったら困るというのはわれわれ買う側の人間の都合であって、本当は営業したくないという気持ちのなか働いている方もいるかもしれない。

やはり、旅行者などという立場で気軽に接するべきでは無いのだなと。

午前10時30分に自宅を再出発し、河津町を目指す。もうこんな時間になってしまった。別に急ぐ必要も無かろう。

国道414号線を静浦港側から長岡北ICへ抜け、伊豆縦貫道に乗ったあと、大仁南ICで降りる。横瀬の信号まで進んだのち、修善寺橋を渡り、修善寺中学前の鮎見橋から県道349号線をひたすら南進し、市山の信号まで行けば後はいつも通り。
こうすることで2つの料金所を回避して進めた。今は料金所の徴収係にさえ接するべきでない時期なのだ。

今日はカツ丼にせず

小縄地川

午後1時、河津町縄地の小縄地川に入った。依然として雨が降っている。やる気も無く、しかし腹は減ってきたので午前中買ったサバ味噌煮弁当をいただく。

美味い。
食べたい時に食べたいものを食べることができる幸せをかみしめた。

あぁ、

歌いたい時に歌いたいものを歌わなきゃなぁ・・・。

無理に歌ってもしょうが無い。こんな時は自分の中で歌いたいという気持ちが沸いてくるのをひたすら待ち続ける。
堤体を川を
流れる水の音を聞きながら、ただひたすら待ち続ける。

雨が降っているのが気になる。これではそもそも外に立っているということが出来ないではないか。
気分を変えるため、場所を移すことにした。

次に選んだのは「谷津川」。

釣り人の言い訳

午後3時、谷津川の「前城野沢」床固工群に到着。雨が小降りになってきた。車から外に出たものの依然として歌いたいという気持ちが出てこない。
また移動するか?

まるで釣りをしているようである。釣れなければ、移動!みたいなノリ。釣れないのを場所のせいにして、自らの実力に向き合おうとしていない。一流の音楽家だったとすればその辺もちゃんとマネジメント出来ているはずだ。

釣りは魚という相手がいてその相手を釣るスポーツ。音楽は自分という相手がいてその相手を釣るスポーツ(のようなもの)だと思っている。自然界の中で自分自身が歌うことが出来るように、誘い出して、食いつかせてやればいい。最終的には、自分自身でも気がついていない心の奥底にある気持ちを引き出す(吐き出す)ことでストレス解消を成功させようとしているのだ。

駐車した車のボンネットに臀部を寄りかからせながら、ただぼんやりとしていた。耳には鳥の鳴き声と床固工を落ちていく水の音と、時折のタイミングで近くに敷かれた伊豆急行の線路を走る電車の音が聞こえる。

午後4時、床固工をピタピタと落ちていく水の音に効果があったのか、ようやく歌おうという気持ちが沸いてきた。

早速準備を済ませ、入渓する。と、ちょっと悪企み。
―さっきまでその気は無かったんだろ~―
と同定作業を自分自身に命じる。ここでは歌いたくなっているのを我慢して葉っぱを調べる。

しばしの同定作業の後、ようやくスピーカーの電源を入れた。選んだのはシューベルト作曲のDie schöne Müllerinよりその10曲目、Tränenregen(涙の雨)。冬にしか歌わないと決めていたDie schöne Müllerinだが、掟を破って登場させた。現場に降り続いた雨がこの曲を誘ったのだ。

決まりを破ったことはいけないと思う反面、こんな素敵な曲が自然発生的に歌いたくなったことについては大喜び。
Tränenregenをたったの2回。時間にして10分弱。わざわざ、片道60キロ以上も走ってきた現場で歌ったのはこれだけ。

これだけだけどすごい名曲。幸せすぎる・・・。

なんとか自分の気持ちをうまく誘い出すことが出来た。雨という条件は最大のネックになるだろうと予想していたが、その辺も最終的にはむしろプラスに働いてくれて終われ、良かった。

晴好雨奇。

この言葉を実感することのできた今回の砂防ダム行脚となった。食にも歌にも美味い、幸せな体験をさせてもらったのだった。

前城野沢へはネコ様のお宅を過ぎて右折。
指定地看板
ヤマグワ
マルバウツギ
立ち位置の背後にはクマノミズキの倒木
タニウツギ(葉裏)
副堤っぽいが一つの床固工
堤体前の様子。


渓畔林・福士川・同定

西伊豆町赤川

砂防ダムの音楽において樹木は大切だ。堤体を前にして立った時、木の無いところでは音が非常に響かせにくい。現状世の中の主流となっている、雑音の全くしない環境(例えば音楽ホールなど。)と違って、砂防ダムの音楽空間では常に水が鳴っているからだ。

主として堤体からの落水の音。そして、そこから先、川石を水が落ちていく音がさらに加わる。滝などがある場合もある。

砂防ダムの音楽では常に川の水の音が、そこで歌う人間の声に抗ってくる。そういった音環境の中で、いかにして音を響かせていくか?というところにこの音楽は楽しさがある。

東伊豆町川久保川

渓畔林

川の水に邪魔をされながら、いかにして音を響かせていくのかというところには「渓畔林」というものが、大きなヒントになる。自分の身長の何倍もある高さから落ちる水の音に対して、自らの声で戦っていくために渓畔林の力を借りるのだ。

渓畔林とは、渓流の川沿いに生える樹木で構成される林のこと。渓流への直射日光を防いで水温上昇を防いだり、落葉(らくよう)や落下昆虫によって渓流内に養分を供給したり、その落下昆虫が魚類のえさになったりしているというところから、渓流の生態系というものの説明をする際によく使われる用語だ。

砂防ダムについて、これまでいろいろなものを紹介してきた。その周辺環境が多種多様であることは、画像だけ見ただけでも簡単にお分かりになると思う。渓畔林が豊かなところ、そうでは無いところ、様々あるし二ヵ所として同じところは無い。

このことは、本当に面白いことで、例えば砂防ダムの大きさを示す用語に「堤高」という言葉がある。堤高とは砂防ダムの一番高いところである「袖天端」の最上部から、一番低いところとなる「堤底」までの長さをいう。堤高6メートルの砂防ダムなんてそこいらじゅうにあるが、その6メートルの6という数字が一緒であっても、渓畔林が違っていれば響きの面で異なる結果が待ち構えているということがある。

結論から先に言ってしまえば、豊かな渓畔林をもったところのほうが音を響かせやすい。木が音を反射させる性質を持っているからだ。

河津町大鍋川

福士川

ちょっと話しが逸れるが、以前山梨県の福士川上流域に行ったときのこと。その日一日の活動を終え、最後自家用車の置いてあるところまで戻って帰り支度をしていると、林道の上の方から地元林業会社の方が、帰り道すがら私の脇に。なにをしていたかと聞かれたので、
「歌を歌っていました。」
と答えると、
「はぁ、そうだったね。君だったのか。んじゃ、またね。」
と、走り去っていった。
こんなもんなのである。(ちなみに歌っている間はお互い死角の仲にあり、相当離れていた。)

山をよく知っている林業会社の人であるからこその感想であったと思う。山の木のたくさん生えた空間というのは非常に音がよく響く。人の声も、動物の鳴き声も、木を切るチェンソーの音でも何でも音がよく響く。木が音を反射させる性質があるからで、山の人たちはそのことを体験的に得ているからだと思う。したがって、その音が反射する空間で歌を歌っていました。と、言っても別段おどろいたりはしなかったのである。

逆に町場に住んでいて、あまり山や森を知らない人こそ、
「山で歌っている。」
と、言うと・・・えっ???となる。

山梨県福士川

同定

豊かな渓畔林と書いた。豊かな渓畔林があることは砂防ダム音楽家にとって喜びだ。これさえあれば、川の水量が少なかろうと多かろうと頑張ろうという気になれる。自らの声を補助してくれる装置がそこにあるのだから、それを最大限活用して音を響かせていけばいいのだ。そして、そんなふうに頼りにしている渓畔林に対して、今後も勉強を続けていかなければならないのは当然のこと。

「同定」という言葉がある。同定とは目の前にある植物と図鑑上にある植物を一致させる行為をいう。渓畔林を構成する樹木一本一本を同定し、明らかにしていきたい。今日は声がよく響く堤体に入れました。終わり・・・。じゃなくて、どんな樹種の力を借りて、音楽上の成功が得られたのかをきちんと理解し、経験として蓄積していきたい。

これは現時点でまだ明白ではないことなのだが、同一の堤体周辺で季節によって響きに違いが出てくるような感覚をすでに体験してきている。おそらく落葉樹の葉のつき方が季節によって違ってくるゆえの現象であると仮説化しているのだが、このことが本当であるのか、今後検証していく必要があると思う。

もし、この仮説が合っていたならば、樹種が異なったりすることでその違いはさらに、歴然と、大きなものになるはずである。なぜなら、木は樹種によって、葉の大きさ、形、枝ぶり、幹の太さ等が全然異なる場合もあるからだ。密度、奥行きがほぼ同じくらいの林でも樹種によって響きが異なるというのであれば、これはおもしろい。

そんなところまで行ってしまった先には、砂防ダムを使い分けするような世界が待っている。堤体があってそのまわりにこんな木が生えてます。じゃなくて、こんな木が生えてるところに堤体が一個置かれています。という規模の話しができるようになってくると思う。

違いが分かるようになりたいのだ。待っているのは、一年を通して最強に楽しめる砂防ダム音楽ライフ。一本一本大変な作業ではあるが最終的には笑えるよう常日頃からトレーニングしていきたい。

静岡市安倍川水系サカサ川

旧道

月ヶ瀬インター

前回の記事で紹介した「矢熊大橋」への行き方について、少し書いてみようと思う。

伊豆中央の大動脈「伊豆縦貫道」は日守大橋、江間トンネル、江間料金所などがある区間が「伊豆中央道」で、大仁中央インター、大仁料金所、修善寺インターなどがある区間が「修善寺道路」。以降は、大平インターから月ヶ瀬インターまでが「天城北道路」と呼ばれる区間で、この天城北道路が前回の記事にも書いたとおり、最も最近に出来た区間で、件の矢熊大橋を含んでいる。

これは伊豆縦貫道という大きなくくりの中に、さらに細分化された名称を持つ区間がそれぞれあるということ。特に伊豆中央道と、修善寺道路に関しては通行料金を徴収する必要があったため、利用者に分かりやすくする意味で別称を設けた(ダブルネームにした)というところであろう。

起点となる沼津岡宮インターは東名高速沼津インターに近く、また新東名長泉沼津インターからは直接伊豆縦貫道にアクセス出来るため、当該道路に乗ってしまいすれば、あとはそのまま「下田」方面の看板にしたがって進んでしまえば迷いはしない。

沼津岡宮インターから、現在の完成区間ほぼ全行程高架橋のスイスイ道路を36kmほど走ると、冒頭にある月ヶ瀬インターの十字路にでることが出来る。矢熊大橋を下から見るには「道の駅伊豆月ヶ瀬」にまず入りたいので、インター直前の左折レーンに入るか、十字路を右折したあと少しにある道の駅入り口から入場する。

いずれの入り口から入場するにしてもスピードは控えめに。画像を見てお分かりの通り、道路は月ヶ瀬インター直前で急激な下り坂となっている。左折するにしても右折するにしてもブレーキを掛けながら進み、ゆとりをもって運転操作したい。こんなところで命を落としてしまっては、自分自身にも良くないし、あとに続く利用者にも迷惑が掛かってしまう。

私自身、道路は自身だけの持ち物では無い公共物であるということを今一度よく考え、これからも安全運転にて利用していこうと思った次第だ。

ミニストップ修善寺大平店

そしてやはり気になるのが

そしてやはり気になるのが、こちら。前回の記事にも書いたとおり、天城北道路が完成してから1年2ヵ月ほどになるが、それより以前はみんなこの店の前を通っていた。国道414号線沿線にあるコンビニエンスストア、ミニストップ修善寺大平店。

看板にドライブインと書かれているとおり、地元民以外に観光客も受け入れているコンビニエンスストアだ。店内には飲食スペースがあったり、男女別トイレがあったり、手造りのファーストフードを置いていたりというところで、うまい具合に観光地仕様になっている。また、近くにあるジオパークスポット「旭滝」への行き方案内なども店内に置かれている。

ある時は、この店のまん前に大型観光バスがでーん!と止まっている光景を目にしたこともあった。トイレ休憩であろうか?
とある漫談家が「中高年の旅行はあっちへ行ってもこっちへ行ってもトイレばかり・・・。」と言って大爆笑を誘っていたが、中高年じゃ無くともここのトイレは本当にありがたい。

もうここに行きすぎてトイレに書かれているポスターの文言を覚えてしまうくらい利用させてもらっている。また、ここの駐車場は仮眠スペースにも。
伊豆縦貫道は、前述の通りそのほとんどが高架されていて信号が無い。道はきわめて直線的、単純である。

自身のスケジュール都合上、夜討ちで出掛ける事もあって、そんなときは大抵走っていると眠くなってしまう。そんなときは、―大平のミニストップまでは頑張ろう!修善寺道路を越えれば・・・―と、ここを目標にして頑張ったことが何度もある。夜の間に越えてしまえば(夜10時~朝6時の間)、伊豆縦貫道は料金所を無料スルー出来るからだ。それで浮いた金を使って、カップラーメンを買いお湯を入れて車の中で食べ、眠る。

冬の深夜、本当に静かな伊豆の田舎町で、つかの間の暖を取ることが出来たのはこの店があったからだ。

夜の様子。

新しい道路がもたらしたもの

天城方面に向かう車は、観光バスであれ、自家用車であれ、運送業者であれ、セールスマンであれ、月ヶ瀬インターが出来る前、その一つ前の大平インターで降りて(というより終点のため。)、「大平IC西」信号を左折するのが王道パターンであったが、天城北道路開通以降はそちらを利用するのが一般的となってしまった。そして、この大平を通る国道414号線は現在“旧道”となっている。

大平より先には、松ヶ瀬、本柿木、青羽根、下船原といった地区がつづく。旧道はこれらの地区の住民には無くてはならない生活道路であり、それのみならず、やはりこれからも伊豆中央の重要ルートとして働き続けてくれるだろう。

旧道の車道より外側を走る歩道をよく見続ければ、松ヶ瀬と青羽根の一部は幅1メートル程度の非常に狭い区間がある。特に青羽根に至っては天城小学校があるというにも関わらずだ。
観光客の走る道路と地域住民の生活道路を分けるということは、沿線住民の安全確保の上で非常に有意義なことであると思う。

天城北道路の登場によって、旧道の交通量は減少した。今後はそれ以前から行っていた交通安全の取り組みを継続し続けながら、沿線の商店や民宿の売上げ対策に取り組んでいく事が重要になってくると思う。地域の活性化ということも忘れず、一緒になって考えていきたい。

4月23日は船原川に入る前、冒頭の画像を撮るため天城北道路の新ルートを使用したものの、旧道沿いの今日の様子が気になり、旧道を走り直してから「出口」三叉路の信号より西進、これまた僅かであるが旧ルートを通るかたちで船原方面を目指し、その後入渓した。

この日は快晴の天気の中、船原川を吹き下ろす谷風にチャレンジ出来た大変有意義な砂防ダム行脚であった。

船原川に入った。
船原第2砂防ダム
渓畔林の下に入って歌う。
堤体全景。

ラーメン橋とアーチ橋

雨が降っても橋の下は道路が乾いている。

4月13日、雨が降った。しかも午前中は強烈な風を伴って。午後になると風は止んだものの、雨が降り続けていた。一日中家で過ごす事も考えたが、それといって代わりになるようなことも思いつかなかったため、思い切って外に出掛けることにした。

目指したのは沼津市宮本。宮本と言えば「あしたか太陽の丘」や「富士通」などがある丘陵地帯であるが、この日は雨が降っていたため、それを凌げる橋の下を目指した。沼津市足高の東部運転免許センター前の信号を西に折れ、そのまま直進を続ける。道はやがて丁字路に差し掛かるので右折し、直後のY字分岐を左に進む。それから道なりに進むとほどなくして、新東名の高架橋がドドーン!と目の前に現れる。目的地の橋だ。

新東名の高架橋

ラーメン橋

橋の上を大型トラックが走っていることがわかる。乗用車も通過しているのであろうが、背が低いためこちらはうかがう事が出来ない。新東名高速御殿場ジャンクション-三ヶ日ジャンクション間の供用開始が2012年(平成24年)4月14日とのことなので、翌14日でちょうど(供用開始から数えれば)8周年目になるまだまだ新しい橋だ。

橋はおおよそ百メートル間隔おきに橋脚があるタイプの橋で、若干のアーチを描いている。専門的にはこのタイプの橋は「ラーメン橋」と言うそうであるが、ラーメンと聞くとやっぱり食べ物のラーメンを連想してしまう。私同様、あまり学歴に長けない方が何かのきっかけでネーミングしたのかと勝手に想像してしまったが、そういうわけでは無いらしく、ドイツ語の「der Rahmen(枠・窓枠・フレーム)」から来ているという。

冒頭の画像にもあるが、横幅はしっかり広くてこれならば雨をしのぐ事が出来る。今日はここで春のこの時期の植物観察をすることにした。もともとこの橋自体は、丘陵を東西に分断する高橋川の浸食によって出来た谷を道路が高度を下げることなく通過出来るようにという目的で出来ている。つまり橋の付け根部分は山の斜面であったところなので、多様な植物がそこには生息している。

面白いと感じるのは道路の上下線の間、数メートルの間隔に生えている植物。わずかに出来たすき間から差し込む太陽光を受けて成長している。よく見ればそのすき間よりあるていど橋の内側になった所だと、植物は生えることが出来ていない。これはどちらかと言えば太陽光と言うより「雨」の恵みを受け取る事が出来なかったゆえの結果なのであろう。

水が無ければ植物は生きていけないのだという、ごくごく基本的な事に今更ながら気づかされたのであった。

真ん中はエノキ
スイカズラ
ツタ
ニガイチゴ
高橋川橋というらしい。(ピンクの花はヒメツルソバ)

アーチ橋

翌4月14日は伊豆市内の田沢川に入った。その田沢川に入る前、せっかくだからとまたしても橋の下に入る事にした。橋の名は矢熊大橋。この橋は伊豆縦貫道で最も最近に完成した区間「天城北道路」の一部を担っており、とても新しい。天城北道路の開通が2019年(平成31年)1月26日なので(こちらも“開通”から数えて。)1年と2ヵ月ほどしか経っておらず、歴史はまだ浅い。

伊豆市矢熊と伊豆市月ヶ瀬を端支点とするアーチ橋で、全体が鉄筋コンクリートで出来ている。前日見たラーメン橋と比べると、桁より下の部分のカーブは更にダイナミックさがある。比較してしまえば迫力に優るということだが、ラーメン橋にしたってアーチ橋にしたっていずれも機能面のみならず、景観を伴った作りであるということは土木の専門家で無くとも理解が出来るところだ。

その見た目のことを言えば、伊豆市月ヶ瀬側の岸辺に「道の駅伊豆月ヶ瀬」があることから、橋そのものの眺望はそちらから楽しむ事となる。道の駅伊豆月ヶ瀬の屋外ウッドデッキや水際公園から橋の下を流れる狩野川ともども眺めたり、写真撮影するのがオーソドックスな楽しみ方になってくると思う。

どうであろうか?中伊豆ののどかな農村地帯に突如としてコンクリートのドデカい橋が現れることに対して難しい見方をする方も少なく無いかもしれない。しかし、この矢熊大橋があることによって良くも悪くも人々の視線は絶対的に狩野川に向かう事になるであろうし、そこから名産品のアユやモクズガニに連想を繋げていくという手もあると思う。

橋そのものは巨大なコンクリートで出来たグレーインフラなのであるが、それをきっかけとして川というもの、水生生物というものに関心を持ってもらえればと思う。自然というものに対し、無関心であることこそが一番恐ろしいと思っている自身にとって、橋でも護岸でもそして砂防ダムでも、人が興味を持って近づいて来てくれることから全てを始めていこうではないかと提案していきたい。

ひとつの河川構造物が自然と人との関わりの架け橋になってくれればと期待しているところだ。

矢熊大橋
道の駅伊豆月ヶ瀬からの眺望
橋の下は狩野川が流れる。
その後はお馴染み田沢川に。
今日もここを遡るワクワク感。
堤体全景。