呪文を唱える合唱曲〈前編〉

鮎の歌 合唱曲
きみは小学生かな?森山登真須のブログへようこそ!

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

「鮎の歌」という合唱曲がある。昔は小学校の合唱団なんかがよく歌っていた曲であったそうだ。

曲は大変美しいピアノ伴奏で始まる。〔川の流れはうたう〕と始まり、鮎の歌のタイトルよろしく、鮎の泳いでいる川を想起させる。続いて、〔夜明けの歌を うす紫の〕とつづく。そして〔川の流れはうたう〕と、また繰り返される。今度は〔川ぞいの町 霧に濡れてる山の町〕に変わる。

田舎の、里山集落の田園風景が思い浮かばれる。

呪文は突如として

呪文は突如としてはじまる。

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

実際に演奏がなされた会場で聴いた人たちは、なんだ?これ?となる。(私は経験してないが・・・。)合唱団の発表だと聞いて、体育館に集められた児童や先生方は呪文を聞き、その異様さ、異質さにびっくりして、うつむいていた顔を一様に上げる。

呪文の部分は突如として始まり、けっこう早口で歌われるため、聞き取ることが出来た者はその会場でほぼ皆無。くだんの呪文が終わったあとも、曲を聞き続けていると何度か早口言葉が出てくる。

その度に???となりながら、さらに聴いていくと、〔川をのぼることだけが 川をのぼることだけが 鮎 鮎 鮎のいのち〕とくる。

―あぁ、やっぱり鮎の歌じゃあないか!―

その後は冒頭の〔川の流れはうたう〕が再び登場したりして、最後は〔若い いのち 鮎 鮎 ああ 鮎の歌〕で曲は閉められる。

昭和50年代、60年代、平成1ケタの頃はコンクールなどでよく歌われていたらしい。

髙根神社

呪文の謎を調べる

さて、くだんの

nekko hinosawa hunabara!
sosite ninokoya minasawa yosina,
syuzenji guchi no katsuragawa.

であるが、漢字変換すると、

〔猫越 火の沢 船原 そして二の小屋 皆沢 吉奈 修善寺口の桂川〕
となる。

なんと伊豆地方の地名が多数!これじゃあヨソの人はわからないでしょ。しかも早口で。
また、歌う側の意図としてはちゃんと伝えているつもりでも、実際は言葉の子音がうまく響いていなかったりするから、
エッコ イノサワ ウナバラ!みたいに聞こえるはずである。

“呪文感”極まりないだろうと・・・、会場で聴いた人たちは。
ちなみに、

〔猫越〕とうたう前の段階で、
〔狩野川の本流にそそぐ流れは〕
という部分がある。かなり重要なヒントになる部分を省略してしまったが、実際のところ、こちらも呪文の部分同様早口で歌われるため、これまた聞き取りづらい。

ローマ字で読みづらかったけれど解かっていたよ。という往年の合唱ファンの方は?

私としては、ほとんどの方がこの
関根栄一作詩、湯山昭作曲「鮎の歌」
について知らなかった。ということを前提として、書かせてもらった。

さて、そんな豪華タッグ(なのですが・・・、)による名曲であるということが解ったところで、ふと疑問が浮かんでくる。これは伊豆地方の地名にかなり詳しい人でも、思うことであろう。

「猫越と船原と吉奈、桂川はわかるとして、火の沢ってなんだ?皆沢ってなんだ?二の小屋?沢?川?聞いたことねえぞ?」

狩野川。画像は鮎釣りの名所である通称「松下の瀬」。先月撮影。

火の沢について

火の沢こと火の沢川は伊豆市上船原というところにある。土肥峠越えの道、伊豆市下船原の国道136号線に「出口」三叉路から西進して入る。もしくは「月ヶ瀬IC」交差点から下船原トンネルを通って同じく西進すると、「伊豆極楽めぐり」の看板の伊豆極楽苑がある。

伊豆極楽苑を過ぎ、しばらく行くと右側に髙根神社という神社が現れる。それも過ぎてセブンイレブン天城湯ヶ島船原店を見ると、火の沢川はもうすぐそこにある。どんな沢かと言えば幅1メートルほどの非常に狭い小川を見ることが出来る。

ちなみに鮎の歌が初演、つまり一番最初に演奏されたのは昭和47年。その昭和47年当時、この火の沢川付近に何があったのかということを知るためには、火の沢川を通り過ぎて少し行けばよい。当時からその場所に存在していた「船原棧道橋」という棧道橋(道路が崖っぷちでも通行できるようにした橋)を見ることが出来る。

そしてこの船原棧道橋を基点としてその手前、奥側にある宿泊施設が「船原温泉」に属する宿になる。例えば奥側の船原館は当時もその一族の経営で同地にあったし、手前側の「山あいの宿うえだ」もその前身の旅館が当地にあった。

また、船原館よりさらに奥側には伊豆中央の巨大リゾート「船原ホテル」が当時はあった。現在はその施設の一部が日帰り温泉浴場「湯治場ほたる」として残っているが、昭和47年時はその経営年鑑のかなり後期ではあるものの、純金風呂と広大な敷地でその名を馳せた有名なリゾート施設が当地にはあったのだ。

したがって、歌の中で〔船原〕と呪文のように唱えられるが、その言葉の持つ影響力というのは昭和47年当時と現在では異なると考える。当時は〔船原〕と言っただけで多くの人々がその巨大リゾートをイメージしたに違いないはずなのだ。

呪文を唱える合唱曲〈後編〉に続く

火の沢川。国道沿いに目立つことも無くチョロチョロ流れている。
鮎の歌 合唱
土石流危険渓流の看板
火の沢川(右端)はいったん船原川に合流して狩野川へ。
船原棧道橋
船原館
旧船原ホテル裏の砂防ダムにチャレンジ。
「船原ホテル」の字を発見!
当時から残る電灯。
船原川の砂防ダム

箒原・長野

沼津市西部(柳沢)5月11日撮影

暑くなってきた。沼津市内の西部地域では田おこしも終わり、いよいよ田植えシーズンを迎える。

田おこしをした田んぼはよく乾かすことが重要だそうだ。これによって土の中にいる好気性微生物を活性化し、植物(イネ)が窒素を取り込みやすい環境を作る。専門的には乾土効果と呼んだりして、稲作をする上で非常に重要な作業として位置づけているそうだが、これが終われば今度は水張りがあり、代かきがあり、そして田植えがある。
農家の大変さが身にしみる。

全てはイネを最適な環境で育てるための努力ということであろう。稲作をうまく成功させるための理論があろうとも、それは自然条件の中で実現させていかなければならない。天気予報を見ながら、田おこしをする期間を決め、代かきをする日を決め、田植えをするその日に向けて苗を育てる。

世間が大型連休だと浮かれ、あちこちに出掛けている時、農業に向き合いプロとしてやるべき仕事をする。志が高くあったとしても相手は自然という中、何が起るか分からない中での仕事。プレッシャーを抱えながら、秋の収穫を夢見て圃場に苗に投資をし、汗水流しているのが農家だ。

農家の方々には敬意しかない。

荒原の棚田

荒原の棚田を見る。

5月9日は長野川に入った。その長野川に入る前、長野の集落内にあるジオスポットに立ち寄った。
ジオスポットの名は「荒原の棚田」。現場にはまだ比較的新しい看板が立っていた。

なぜここが“ジオ”なのかといえば、棚田となっている場所が、付近の山の火山活動で迫ってきた溶岩流によるものだということに加えて、長野川が運んだ土砂によって出来たものだからだという。自然活動の中で偶然的に作られた土台の上に、棚田はあるのだと看板は解説している。

ジオという自然遺産のその上に乗っかるかたちで、棚田という人工物が存在しているということが分かったが、そのことをよくよく考えればこれは非常に興味深い。ジオスポットとして認定されたもののそのほとんどは、本来人間の手が一切介入していない“自然のありのまま”というような条件があるような気がして、ここはいいの?と思ってしまうのである。

棚田という農業の舞台である以上、ある時は水の張られた田植え直後の状態であったり、ある時はたわわに実った稲穂が垂れている状態であったり、ある時は稲刈りが終わった刈りあとの状態であったりと様々に変化する。様々に変化するのはイネという植物の出来事だからしょうがないでしょう。と言っても、それは多分な人的介入を経ての結果なはずだ。

台風で畦(あぜ)が壊されたりしたら?どうする?直すのはアリ?

いろいろと疑問が出てくる。とまぁ、そんな風にいろいろツッコんで考えている自分自身をふと顧みてみると、この場所の持っている素晴らしさになんと気がついてしまう。ジオスポットというのは得てして地学などの専門家向けの解説になってしまう事が多い。

もともと火山とか岩とかそういった分野に興味を引かれている人にとっては、非常に楽しい講座になると思うのだが、ほとんどの一般市民にとっては無関心で退屈なものになりがちである。棚田というものは水田の一種であるし、それは日本中にあるものだし、なによりそこは米という、ご飯という「食べ物」を作っている舞台だからである。 

棚田の基礎となった台地は溶岩や堆積土砂なのだが、その上に棚田がワンクッション置かれたことでずいぶんと、親しみやすい、引きつけられやすいジオの解説となった。おかげでかなりすんなりと入ってくる形で勉強することができた。ありがとう!棚田で良かった。

荒原の棚田。5月9日撮影。

長野川で水温を測る

そんな荒原の棚田の画像を貼ってみて、これをご覧になり、おわかりいただけたと思うが、もうすでに水張りも、代かきも、田植えも当地は完了した状態であった。地理院地図によればこの場所の標高はちょうど300メートルほど。一方、沼津市西部は画像の柳沢もそうであるし、海抜にして10メートルにも満たないところが多い。

緯度は伊豆半島に属する伊豆市湯ヶ島長野の方が低いが、それだけの標高差また日照時間から考えれば、圧倒的に沼津市西部の方が暖かい気候だということがわかる。単純に考えて、一早く春を迎えた沼津の方こそ一早く田植えが行われるものだと考えそうなところであるが、そうではないあたりに米作りの奥深さが感じられる。

水温はどうか?水温は(もう田植えの終わっていた)5月9日に長野川で測ってみたところ、12℃ほどであった。なぜ長野川で計ったかと言えば、この地区の棚田はじめ、水田に使われている水は長野川から引き込んだ水だからである。

長野の集落よりも一段上に上がったところには「箒原」という集落がある。その箒原に堤高3メートルほどの低い堰堤があって、その堰堤が取水堰になって水を取り込んでいる。

箒原・長野地区は稲作が盛んな地域である。荒原の棚田以外にも地区の広い範囲で稲作が行われていることは実際に当地に行ってみれば分かることだが、その箒原・長野一帯の棚田、水田に水を供給しているのが長野川であり、その起点となるのが箒原の堰堤や長野第3砂防ダムなのだ。5月9日は現地で、砂防と砂防以外の目的で活躍する堤体を見てきた。

水温を測る。
取水堰になっている堰堤。滞留土砂も見られる。
半開きなのは流木を噛まないようにするためか?
農業用水で出来た滝。(画像中央)
余分な水は排水口を通じて長野川に戻る。長野橋上流付近。

美しき村

箒原・長野にいつも行って思うのは、この地域が大変に水をうまく利用している地区だということ。長野川から引き込んだ水で稲作をはじめとした農業を行っている。他の地域でもそういう傾向は見られるが、この地区の場合は少し違う気がする。

何が違うのかと言えば、他の地区の場合、川から水を引き込んでいるその多くは「個人」を単位としているケースがほとんどであるような気がする。川から引き込んだ水の配管を追いかけていくと、一軒のお宅の庭やため池にたどり着くことが出来る。

「個人」の生活のために敷設された設備をこれまで見てきたということだが、この箒原・長野については「集落」単位で大々的に利用する目的をもって水を引き込んでいる。集落としてどうすれば皆がよりよい豊かな生活を送ることが出来るかということを考え、共同して生きている。ここにいつも行くたび、そんな当地の人々の気持ちを感じずにはいられない。

「荒原の棚田」というのは、ただの棚田にあらずそんな背景を含んでいる。この棚田が人々の共同の象徴としてここにあり続けてくれるのは、傍目に見ても大変に美しいことだ。今までも、そしてこれからも永遠(とわ)に美しくあり続ける箒原・長野であってほしいものである。

箒原集落内の棚田&ワサビ田
堤高15.0mは副堤を含めた値。
アブラチャン
ケヤキ
カヤ
シロダモ
副堤だけでもかなり高い。
こちらは箒原につづく配管
長野第三砂防ダム

大好き河津町!vol.8

フードストアあおき(こちらは河津店)

晴好雨奇(せいこううき)という言葉がある。

〔晴天でも雨天でもすばらしい景色のこと。自然の眺めが晴天には美しく、一方、雨が降ったら降ったで素晴らしいこと。▽「奇」は普通とは違ってすぐれている意。「水光瀲※艶<れんえん>として晴れまさに好く、山色空濛<くうもう>として雨も亦<また>奇なり」の略。「雨奇晴好<うきせいこう>」ともいう。三省堂 新明解四字熟語辞典より※艶の字はさんずいが付く。〕

中国の蘇軾(そしょく)の詩が語源だそうだが、なんと素晴らしい言葉であろうか。晴れた日を美しいと言い、雨の日を素晴らしいという。


5月4日は雨が降った。それより以前の週間天気予報の段階から当日は雨予報。晴れてくれよと願ってもこれだけはどうにもならない。自然相手の中で楽しむ砂防ダムの音楽において天気の影響というのは計り知れない。晴れた日には太陽の光が水面を照らす。そこで山の木々や斜面が真っ黒な影を落とし、その中で歌うのだ。

いつだって晴れてくれていたほうが、いいに決まっている!

この日の出発前もそう思っていたのだった。

おい、何しに来たんだ?(谷津のネコさまより。)

どうにもならない。と言えば、

どうにもならないと言えば、やっぱり最近流行のアレ。
人と接触するな!というのだからアウトドアーマン、旅行者は堪まったものでは無い。
買い物ひとつ取ったって河津町民がするというのならまだしも、部外者となる者が安易にその中に立ち入るべきでは無いと思った。

したがって今回の砂防ダム行脚の食料調達は、自宅のある沼津市内で行うことにした。行うことにした・・・のだが、本来行こうと思っていた店がチェーンストアであったため、店舗を別にして買うことに。店の名前はフードストアあおき沼津店。なんと河津町出身のスーパーマーケットである。

創業は昭和21年、当時の賀茂郡下河津村にて。設立は昭和32年、会社名は株式会社青木商店。現在は沼津市大岡に本社があり、社名は株式会社あおき。静岡県下に8店舗、神奈川県・東京都にそれぞれ2店舗と1店舗ストアを構える。下田港や沼津港から直送の魚介をはじめ、農業県である静岡の県内産青果の取り扱いも多い。

食肉部門においては、本場ドイツで修行を積んだ担当者がソーセージを手掛けるほか、同じく酒類販売ではワイン担当が直接フランスまで買い付けに赴くなど「食」に対するこだわりは強く、各部門専門店並みの品揃えで珍種も多数。キャッチフレーズは「食文化のパラダイス」。

総菜コーナーには、パラダイス名物の一つに数えられる美味いカツ丼がある。今日もカツ丼にしようかと思ったが、それより気の向いたサバ味噌煮弁当にした。弁当と晩ご飯用の食材を買い、店を出たのが午前10時すぎのことだった。

フードストアあおき(こちらは沼津店)

自宅を再出発

晩ご飯用の食材を置きにいったん自宅に戻る。それにしても、世の中がこんな状態である中にあって、しかしながら営業を続けているスーパーマーケットには本当に頭が下がる。店が閉まってしまったら困るというのはわれわれ買う側の人間の都合であって、本当は営業したくないという気持ちのなか働いている方もいるかもしれない。

やはり、旅行者などという立場で気軽に接するべきでは無いのだなと。

午前10時30分に自宅を再出発し、河津町を目指す。もうこんな時間になってしまった。別に急ぐ必要も無かろう。

国道414号線を静浦港側から長岡北ICへ抜け、伊豆縦貫道に乗ったあと、大仁南ICで降りる。横瀬の信号まで進んだのち、修善寺橋を渡り、修善寺中学前の鮎見橋から県道349号線をひたすら南進し、市山の信号まで行けば後はいつも通り。
こうすることで2つの料金所を回避して進めた。今は料金所の徴収係にさえ接するべきでない時期なのだ。

今日はカツ丼にせず

小縄地川

午後1時、河津町縄地の小縄地川に入った。依然として雨が降っている。やる気も無く、しかし腹は減ってきたので午前中買ったサバ味噌煮弁当をいただく。

美味い。
食べたい時に食べたいものを食べることができる幸せをかみしめた。

あぁ、

歌いたい時に歌いたいものを歌わなきゃなぁ・・・。

無理に歌ってもしょうが無い。こんな時は自分の中で歌いたいという気持ちが沸いてくるのをひたすら待ち続ける。
堤体を川を
流れる水の音を聞きながら、ただひたすら待ち続ける。

雨が降っているのが気になる。これではそもそも外に立っているということが出来ないではないか。
気分を変えるため、場所を移すことにした。

次に選んだのは「谷津川」。

釣り人の言い訳

午後3時、谷津川の「前城野沢」床固工群に到着。雨が小降りになってきた。車から外に出たものの依然として歌いたいという気持ちが出てこない。
また移動するか?

まるで釣りをしているようである。釣れなければ、移動!みたいなノリ。釣れないのを場所のせいにして、自らの実力に向き合おうとしていない。一流の音楽家だったとすればその辺もちゃんとマネジメント出来ているはずだ。

釣りは魚という相手がいてその相手を釣るスポーツ。音楽は自分という相手がいてその相手を釣るスポーツ(のようなもの)だと思っている。自然界の中で自分自身が歌うことが出来るように、誘い出して、食いつかせてやればいい。最終的には、自分自身でも気がついていない心の奥底にある気持ちを引き出す(吐き出す)ことでストレス解消を成功させようとしているのだ。

駐車した車のボンネットに臀部を寄りかからせながら、ただぼんやりとしていた。耳には鳥の鳴き声と床固工を落ちていく水の音と、時折のタイミングで近くに敷かれた伊豆急行の線路を走る電車の音が聞こえる。

午後4時、床固工をピタピタと落ちていく水の音に効果があったのか、ようやく歌おうという気持ちが沸いてきた。

早速準備を済ませ、入渓する。と、ちょっと悪企み。
―さっきまでその気は無かったんだろ~―
と同定作業を自分自身に命じる。ここでは歌いたくなっているのを我慢して葉っぱを調べる。

しばしの同定作業の後、ようやくスピーカーの電源を入れた。選んだのはシューベルト作曲のDie schöne Müllerinよりその10曲目、Tränenregen(涙の雨)。冬にしか歌わないと決めていたDie schöne Müllerinだが、掟を破って登場させた。現場に降り続いた雨がこの曲を誘ったのだ。

決まりを破ったことはいけないと思う反面、こんな素敵な曲が自然発生的に歌いたくなったことについては大喜び。
Tränenregenをたったの2回。時間にして10分弱。わざわざ、片道60キロ以上も走ってきた現場で歌ったのはこれだけ。

これだけだけどすごい名曲。幸せすぎる・・・。

なんとか自分の気持ちをうまく誘い出すことが出来た。雨という条件は最大のネックになるだろうと予想していたが、その辺も最終的にはむしろプラスに働いてくれて終われ、良かった。

晴好雨奇。

この言葉を実感することのできた今回の砂防ダム行脚となった。食にも歌にも美味い、幸せな体験をさせてもらったのだった。

前城野沢へはネコ様のお宅を過ぎて右折。
指定地看板
ヤマグワ
マルバウツギ
立ち位置の背後にはクマノミズキの倒木
タニウツギ(葉裏)
副堤っぽいが一つの床固工
堤体前の様子。


渓畔林・福士川・同定

西伊豆町赤川

砂防ダムの音楽において樹木は大切だ。堤体を前にして立った時、木の無いところでは音が非常に響かせにくい。現状世の中の主流となっている、雑音の全くしない環境(例えば音楽ホールなど。)と違って、砂防ダムの音楽空間では常に水が鳴っているからだ。

主として堤体からの落水の音。そして、そこから先、川石を水が落ちていく音がさらに加わる。滝などがある場合もある。

砂防ダムの音楽では常に川の水の音が、そこで歌う人間の声に抗ってくる。そういった音環境の中で、いかにして音を響かせていくか?というところにこの音楽は楽しさがある。

東伊豆町川久保川

渓畔林

川の水に邪魔をされながら、いかにして音を響かせていくのかというところには「渓畔林」というものが、大きなヒントになる。自分の身長の何倍もある高さから落ちる水の音に対して、自らの声で戦っていくために渓畔林の力を借りるのだ。

渓畔林とは、渓流の川沿いに生える樹木で構成される林のこと。渓流への直射日光を防いで水温上昇を防いだり、落葉(らくよう)や落下昆虫によって渓流内に養分を供給したり、その落下昆虫が魚類のえさになったりしているというところから、渓流の生態系というものの説明をする際によく使われる用語だ。

砂防ダムについて、これまでいろいろなものを紹介してきた。その周辺環境が多種多様であることは、画像だけ見ただけでも簡単にお分かりになると思う。渓畔林が豊かなところ、そうでは無いところ、様々あるし二ヵ所として同じところは無い。

このことは、本当に面白いことで、例えば砂防ダムの大きさを示す用語に「堤高」という言葉がある。堤高とは砂防ダムの一番高いところである「袖天端」の最上部から、一番低いところとなる「堤底」までの長さをいう。堤高6メートルの砂防ダムなんてそこいらじゅうにあるが、その6メートルの6という数字が一緒であっても、渓畔林が違っていれば響きの面で異なる結果が待ち構えているということがある。

結論から先に言ってしまえば、豊かな渓畔林をもったところのほうが音を響かせやすい。木が音を反射させる性質を持っているからだ。

河津町大鍋川

福士川

ちょっと話しが逸れるが、以前山梨県の福士川上流域に行ったときのこと。その日一日の活動を終え、最後自家用車の置いてあるところまで戻って帰り支度をしていると、林道の上の方から地元林業会社の方が、帰り道すがら私の脇に。なにをしていたかと聞かれたので、
「歌を歌っていました。」
と答えると、
「はぁ、そうだったね。君だったのか。んじゃ、またね。」
と、走り去っていった。
こんなもんなのである。(ちなみに歌っている間はお互い死角の仲にあり、相当離れていた。)

山をよく知っている林業会社の人であるからこその感想であったと思う。山の木のたくさん生えた空間というのは非常に音がよく響く。人の声も、動物の鳴き声も、木を切るチェンソーの音でも何でも音がよく響く。木が音を反射させる性質があるからで、山の人たちはそのことを体験的に得ているからだと思う。したがって、その音が反射する空間で歌を歌っていました。と、言っても別段おどろいたりはしなかったのである。

逆に町場に住んでいて、あまり山や森を知らない人こそ、
「山で歌っている。」
と、言うと・・・えっ???となる。

山梨県福士川

同定

豊かな渓畔林と書いた。豊かな渓畔林があることは砂防ダム音楽家にとって喜びだ。これさえあれば、川の水量が少なかろうと多かろうと頑張ろうという気になれる。自らの声を補助してくれる装置がそこにあるのだから、それを最大限活用して音を響かせていけばいいのだ。そして、そんなふうに頼りにしている渓畔林に対して、今後も勉強を続けていかなければならないのは当然のこと。

「同定」という言葉がある。同定とは目の前にある植物と図鑑上にある植物を一致させる行為をいう。渓畔林を構成する樹木一本一本を同定し、明らかにしていきたい。今日は声がよく響く堤体に入れました。終わり・・・。じゃなくて、どんな樹種の力を借りて、音楽上の成功が得られたのかをきちんと理解し、経験として蓄積していきたい。

これは現時点でまだ明白ではないことなのだが、同一の堤体周辺で季節によって響きに違いが出てくるような感覚をすでに体験してきている。おそらく落葉樹の葉のつき方が季節によって違ってくるゆえの現象であると仮説化しているのだが、このことが本当であるのか、今後検証していく必要があると思う。

もし、この仮説が合っていたならば、樹種が異なったりすることでその違いはさらに、歴然と、大きなものになるはずである。なぜなら、木は樹種によって、葉の大きさ、形、枝ぶり、幹の太さ等が全然異なる場合もあるからだ。密度、奥行きがほぼ同じくらいの林でも樹種によって響きが異なるというのであれば、これはおもしろい。

そんなところまで行ってしまった先には、砂防ダムを使い分けするような世界が待っている。堤体があってそのまわりにこんな木が生えてます。じゃなくて、こんな木が生えてるところに堤体が一個置かれています。という規模の話しができるようになってくると思う。

違いが分かるようになりたいのだ。待っているのは、一年を通して最強に楽しめる砂防ダム音楽ライフ。一本一本大変な作業ではあるが最終的には笑えるよう常日頃からトレーニングしていきたい。

静岡市安倍川水系サカサ川

旧道

月ヶ瀬インター

前回の記事で紹介した「矢熊大橋」への行き方について、少し書いてみようと思う。

伊豆中央の大動脈「伊豆縦貫道」は日守大橋、江間トンネル、江間料金所などがある区間が「伊豆中央道」で、大仁中央インター、大仁料金所、修善寺インターなどがある区間が「修善寺道路」。以降は、大平インターから月ヶ瀬インターまでが「天城北道路」と呼ばれる区間で、この天城北道路が前回の記事にも書いたとおり、最も最近に出来た区間で、件の矢熊大橋を含んでいる。

これは伊豆縦貫道という大きなくくりの中に、さらに細分化された名称を持つ区間がそれぞれあるということ。特に伊豆中央道と、修善寺道路に関しては通行料金を徴収する必要があったため、利用者に分かりやすくする意味で別称を設けた(ダブルネームにした)というところであろう。

起点となる沼津岡宮インターは東名高速沼津インターに近く、また新東名長泉沼津インターからは直接伊豆縦貫道にアクセス出来るため、当該道路に乗ってしまいすれば、あとはそのまま「下田」方面の看板にしたがって進んでしまえば迷いはしない。

沼津岡宮インターから、現在の完成区間ほぼ全行程高架橋のスイスイ道路を36kmほど走ると、冒頭にある月ヶ瀬インターの十字路にでることが出来る。矢熊大橋を下から見るには「道の駅伊豆月ヶ瀬」にまず入りたいので、インター直前の左折レーンに入るか、十字路を右折したあと少しにある道の駅入り口から入場する。

いずれの入り口から入場するにしてもスピードは控えめに。画像を見てお分かりの通り、道路は月ヶ瀬インター直前で急激な下り坂となっている。左折するにしても右折するにしてもブレーキを掛けながら進み、ゆとりをもって運転操作したい。こんなところで命を落としてしまっては、自分自身にも良くないし、あとに続く利用者にも迷惑が掛かってしまう。

私自身、道路は自身だけの持ち物では無い公共物であるということを今一度よく考え、これからも安全運転にて利用していこうと思った次第だ。

ミニストップ修善寺大平店

そしてやはり気になるのが

そしてやはり気になるのが、こちら。前回の記事にも書いたとおり、天城北道路が完成してから1年2ヵ月ほどになるが、それより以前はみんなこの店の前を通っていた。国道414号線沿線にあるコンビニエンスストア、ミニストップ修善寺大平店。

看板にドライブインと書かれているとおり、地元民以外に観光客も受け入れているコンビニエンスストアだ。店内には飲食スペースがあったり、男女別トイレがあったり、手造りのファーストフードを置いていたりというところで、うまい具合に観光地仕様になっている。また、近くにあるジオパークスポット「旭滝」への行き方案内なども店内に置かれている。

ある時は、この店のまん前に大型観光バスがでーん!と止まっている光景を目にしたこともあった。トイレ休憩であろうか?
とある漫談家が「中高年の旅行はあっちへ行ってもこっちへ行ってもトイレばかり・・・。」と言って大爆笑を誘っていたが、中高年じゃ無くともここのトイレは本当にありがたい。

もうここに行きすぎてトイレに書かれているポスターの文言を覚えてしまうくらい利用させてもらっている。また、ここの駐車場は仮眠スペースにも。
伊豆縦貫道は、前述の通りそのほとんどが高架されていて信号が無い。道はきわめて直線的、単純である。

自身のスケジュール都合上、夜討ちで出掛ける事もあって、そんなときは大抵走っていると眠くなってしまう。そんなときは、―大平のミニストップまでは頑張ろう!修善寺道路を越えれば・・・―と、ここを目標にして頑張ったことが何度もある。夜の間に越えてしまえば(夜10時~朝6時の間)、伊豆縦貫道は料金所を無料スルー出来るからだ。それで浮いた金を使って、カップラーメンを買いお湯を入れて車の中で食べ、眠る。

冬の深夜、本当に静かな伊豆の田舎町で、つかの間の暖を取ることが出来たのはこの店があったからだ。

夜の様子。

新しい道路がもたらしたもの

天城方面に向かう車は、観光バスであれ、自家用車であれ、運送業者であれ、セールスマンであれ、月ヶ瀬インターが出来る前、その一つ前の大平インターで降りて(というより終点のため。)、「大平IC西」信号を左折するのが王道パターンであったが、天城北道路開通以降はそちらを利用するのが一般的となってしまった。そして、この大平を通る国道414号線は現在“旧道”となっている。

大平より先には、松ヶ瀬、本柿木、青羽根、下船原といった地区がつづく。旧道はこれらの地区の住民には無くてはならない生活道路であり、それのみならず、やはりこれからも伊豆中央の重要ルートとして働き続けてくれるだろう。

旧道の車道より外側を走る歩道をよく見続ければ、松ヶ瀬と青羽根の一部は幅1メートル程度の非常に狭い区間がある。特に青羽根に至っては天城小学校があるというにも関わらずだ。
観光客の走る道路と地域住民の生活道路を分けるということは、沿線住民の安全確保の上で非常に有意義なことであると思う。

天城北道路の登場によって、旧道の交通量は減少した。今後はそれ以前から行っていた交通安全の取り組みを継続し続けながら、沿線の商店や民宿の売上げ対策に取り組んでいく事が重要になってくると思う。地域の活性化ということも忘れず、一緒になって考えていきたい。

4月23日は船原川に入る前、冒頭の画像を撮るため天城北道路の新ルートを使用したものの、旧道沿いの今日の様子が気になり、旧道を走り直してから「出口」三叉路の信号より西進、これまた僅かであるが旧ルートを通るかたちで船原方面を目指し、その後入渓した。

この日は快晴の天気の中、船原川を吹き下ろす谷風にチャレンジ出来た大変有意義な砂防ダム行脚であった。

船原川に入った。
船原第2砂防ダム
渓畔林の下に入って歌う。
堤体全景。

ラーメン橋とアーチ橋

雨が降っても橋の下は道路が乾いている。

4月13日、雨が降った。しかも午前中は強烈な風を伴って。午後になると風は止んだものの、雨が降り続けていた。一日中家で過ごす事も考えたが、それといって代わりになるようなことも思いつかなかったため、思い切って外に出掛けることにした。

目指したのは沼津市宮本。宮本と言えば「あしたか太陽の丘」や「富士通」などがある丘陵地帯であるが、この日は雨が降っていたため、それを凌げる橋の下を目指した。沼津市足高の東部運転免許センター前の信号を西に折れ、そのまま直進を続ける。道はやがて丁字路に差し掛かるので右折し、直後のY字分岐を左に進む。それから道なりに進むとほどなくして、新東名の高架橋がドドーン!と目の前に現れる。目的地の橋だ。

新東名の高架橋

ラーメン橋

橋の上を大型トラックが走っていることがわかる。乗用車も通過しているのであろうが、背が低いためこちらはうかがう事が出来ない。新東名高速御殿場ジャンクション-三ヶ日ジャンクション間の供用開始が2012年(平成24年)4月14日とのことなので、翌14日でちょうど(供用開始から数えれば)8周年目になるまだまだ新しい橋だ。

橋はおおよそ百メートル間隔おきに橋脚があるタイプの橋で、若干のアーチを描いている。専門的にはこのタイプの橋は「ラーメン橋」と言うそうであるが、ラーメンと聞くとやっぱり食べ物のラーメンを連想してしまう。私同様、あまり学歴に長けない方が何かのきっかけでネーミングしたのかと勝手に想像してしまったが、そういうわけでは無いらしく、ドイツ語の「der Rahmen(枠・窓枠・フレーム)」から来ているという。

冒頭の画像にもあるが、横幅はしっかり広くてこれならば雨をしのぐ事が出来る。今日はここで春のこの時期の植物観察をすることにした。もともとこの橋自体は、丘陵を東西に分断する高橋川の浸食によって出来た谷を道路が高度を下げることなく通過出来るようにという目的で出来ている。つまり橋の付け根部分は山の斜面であったところなので、多様な植物がそこには生息している。

面白いと感じるのは道路の上下線の間、数メートルの間隔に生えている植物。わずかに出来たすき間から差し込む太陽光を受けて成長している。よく見ればそのすき間よりあるていど橋の内側になった所だと、植物は生えることが出来ていない。これはどちらかと言えば太陽光と言うより「雨」の恵みを受け取る事が出来なかったゆえの結果なのであろう。

水が無ければ植物は生きていけないのだという、ごくごく基本的な事に今更ながら気づかされたのであった。

真ん中はエノキ
スイカズラ
ツタ
ニガイチゴ
高橋川橋というらしい。(ピンクの花はヒメツルソバ)

アーチ橋

翌4月14日は伊豆市内の田沢川に入った。その田沢川に入る前、せっかくだからとまたしても橋の下に入る事にした。橋の名は矢熊大橋。この橋は伊豆縦貫道で最も最近に完成した区間「天城北道路」の一部を担っており、とても新しい。天城北道路の開通が2019年(平成31年)1月26日なので(こちらも“開通”から数えて。)1年と2ヵ月ほどしか経っておらず、歴史はまだ浅い。

伊豆市矢熊と伊豆市月ヶ瀬を端支点とするアーチ橋で、全体が鉄筋コンクリートで出来ている。前日見たラーメン橋と比べると、桁より下の部分のカーブは更にダイナミックさがある。比較してしまえば迫力に優るということだが、ラーメン橋にしたってアーチ橋にしたっていずれも機能面のみならず、景観を伴った作りであるということは土木の専門家で無くとも理解が出来るところだ。

その見た目のことを言えば、伊豆市月ヶ瀬側の岸辺に「道の駅伊豆月ヶ瀬」があることから、橋そのものの眺望はそちらから楽しむ事となる。道の駅伊豆月ヶ瀬の屋外ウッドデッキや水際公園から橋の下を流れる狩野川ともども眺めたり、写真撮影するのがオーソドックスな楽しみ方になってくると思う。

どうであろうか?中伊豆ののどかな農村地帯に突如としてコンクリートのドデカい橋が現れることに対して難しい見方をする方も少なく無いかもしれない。しかし、この矢熊大橋があることによって良くも悪くも人々の視線は絶対的に狩野川に向かう事になるであろうし、そこから名産品のアユやモクズガニに連想を繋げていくという手もあると思う。

橋そのものは巨大なコンクリートで出来たグレーインフラなのであるが、それをきっかけとして川というもの、水生生物というものに関心を持ってもらえればと思う。自然というものに対し、無関心であることこそが一番恐ろしいと思っている自身にとって、橋でも護岸でもそして砂防ダムでも、人が興味を持って近づいて来てくれることから全てを始めていこうではないかと提案していきたい。

ひとつの河川構造物が自然と人との関わりの架け橋になってくれればと期待しているところだ。

矢熊大橋
道の駅伊豆月ヶ瀬からの眺望
橋の下は狩野川が流れる。
その後はお馴染み田沢川に。
今日もここを遡るワクワク感。
堤体全景。

離島に来てしまった気分

展望台から望む。

4月6日、正午すぎ、戸田しんでん梅林公園を訪れた。展望台のある一番高いところを目指して坂を駆け上がる。斜面に生える梅の木は新葉の季節で、それらが海風に吹かれてさらさらと揺れている。

展望台に上がると、旧戸田村の集落が一望出来た。集落は手前側もそうだし、南北が山に囲まれていて、一部は死角となっているのだが、これでほぼ全域を望んでいる。人口は3千人と少しらしい。“村”の中央を流れる戸田大川のせせらぎの音が聞こえる。あとは県道18号線の坂を上り下りしていく車の音が時折聞こえる。

そんなふうに耳からはいろいろな情報が入ってくる。でも、やっぱりこの村は静かだ。今、日本中の観光地が閑散状態と化しているようであるが、こちらに関しては・・・、

いつも通り!

の静けさで迎えてくれている。今、ここに来るまでに、たしかに陸続きの道を自家用車で走ってきたはずだ。だけれども、これはどうやら離島に来てしまったような気分になっている。

戸田港

海苑

時刻は12時台。午前中に使った体力、ここに車で来るまでに消費した体力があった。体は遡行前の食事を要求し、それではと海苑に寄ることにした。

いつもの壁向かいのカウンター席に座った。今日は女将さんと、もう一人、男の方の2人で切り盛りしていた。もう少し若い男が厨房にいることもあるが、今日はいなかった。女将さんは村外の人間である私に対しても、いつもやさしく接してくれる。こちらは気まぐれで登場する、一見さんであるというのにも関わらず、嫌な顔をされたことが無い。

客観的に見れば今は自治体を同じくした沼津市の客へのもてなしになるのだが、この店の“商圏”を実質的に考えた時、その有効レンジはめちゃくちゃ広いと思う。日本の首都、東京と言ったってけっして遠すぎはしない。地図アプリで調べてみたらその距離は166キロ(東京日本橋~沼津市戸田地区センター)で、所要時間は2時間23分だという。

これは近い!

と言うのが、戸田を知るものとしての感想。東京都内というか、首都圏に住んでいて、毎週末を戸田で過ごす週末型村人というのも、必ずやいるはずであろう。戸田を知らない人に説明すると、戸田というのはそういうところなのである。ここは伊豆半島という陸続き地形の中にある一つの村であるが、まるで離島にいるような、それも気候も人も本当に暖かい風土がここにはある。依存症になる。本当に、ここは・・・。

暖かいラーメンが運ばれてきた。余計な手出しはすまいと静かに麺をすする。ゆっくりしていたいけれど、今日はそれが出来ない。ここへ来て、食べさせてもらっただけで本当にありがたいことなのだ。足早に完食し、代金を渡して店を出た。

海苑

腹も満たされ

腹も満たされたところで、午前中の疲労感も抱えたまま県道18号線を戸田峠方向に向かって走る。今から何をするかはもう決まっている。遡行前・・・の、

昼寝タイム!

入渓点前の駐車スペースに車を停め、スマートフォンのタイマーを15分にセットする。もうちょっと長く寝ていたい気もするが、先ほど海苑で食べたラーメンの味がまだ口の中に残っている。そして今日のこの春の陽気。幸せすぎて、眠ったまま最後二度と起きられなくなるのではないかという心配があるので、15分で強制終了することを条件に車のシートに身を預けた・・・。

15分は意外と長く、実質眠っていたのは前半10分くらい。あとの5分はあえて目をつむったままポカポカ陽気を満喫した。

入渓点

800メートル

午後2時前、車から降り、入渓前の準備を行う。これまでのシーズンではズボンの下にアンダータイツを一枚履いていたが、今日はもう要らないだろうということで脱ぎ去った。上半身もこれまでより一枚少ない格好にして行くことに。気温は18℃ほど。暖かいことに間違いは無いのだが、時折海の方から吹き込んでくる風はまだまだ冷たい。

準備を済ませいよいよ入渓する。入渓点はまず見える堤高3メートルほどの堰堤を巻いてからはじまる。すんなりとこれをかわし、沢を登り始める。入渓点にあった指定地看板によれば、この沢は六郎木沢というらしい。戸田の中心を流れる「戸田大川」があってその支流「北山川」があって、その北山川起点よりさらに上流の区間がこの沢なのであろう。

川幅は1メートルから広いところでも2、3メートルほどしか無い。しかし、水は割としっかり流れており申し分ない。金冠山という標高816メートルの山に端を発した沢であるとの事だが、やはりこの800メートルぐらいからを境に沢というのは、水の安定供給という面で分かれてくる。これより低くなってしまうと、伏流を見ることが多い。

今のような冬~梅雨前までの季節は特にそうなりやすいので、遡行時に水を見続けるかたちで登っていきたいのであれば、まずは標高の数値を気にして場所を選定すると良いと思う。ちなみにこの旧戸田村東部の頂はほかに達磨山(982メートル)がある。つまり旧戸田村の東部山麓であれば、基本的にはどこでも一年中、伏流する事無く流れる沢を見続ける事が出来るということである。

しっかりと水が流れている沢

くるみの木

堤体であるが、入渓点から40分ほどのところに1本、それから20分ほどのところに1本、さらに1時間ほどのところに1本見ることが出来た。自分の中で最も楽しめたのは2本目の堤体で、堤体の2階部分にヤマザクラの木を見る事が出来た。当初は全然この歌を歌う予定に無かったのだが、そこで選んだのがシューマンのくるみの木。

さくらの木に対してくるみの木を歌うのは、おかしなことだという意見もあろう。だがこの曲の中には実質的な主人公となるくるみのBlüten(花々)がNeigend(傾ける)したりBeugend(曲げる)したりするとある。くるみという樹種にこだわってイメージすることも大事かもしれないが、その詩の言葉から感じ取られた「柔らかさ」を表現するのにヤマザクラの花や新葉は最適と言って余りあるものであった。

なにより、このくるみの木という曲に対して、入渓の段階では全く歌うことを予想していなかったところで、自然発生的に自分の中でやりたくなったというあたりが、すでに痛快そのものなのである。
―今日はこんな感じで登って、あそこでこんな景色を見ながら誰々の作曲した○○を歌ってみよう。―といった事前計画に基づいた歌でないことのおもしろさ、負担なき軽快さはお解りいただけるであろうか?

自然環境が選曲のヒントを与えてくれ、イメージを与えてくれ、渓畔林となって響きを作ってくれている。砂防ダム音楽家としてこれ以上の幸せは無いのではないか。

2本目の堤体を前に歌いながら過ごすこと1時間。港町の時報が鳴ってしまうと慌てて(それでも慎重に)沢を降りた。

入渓点。(退渓時に撮影したもの)
イヌガヤとそれに絡みつくアケビ
1本目の堤体。左岸側のデカいのはおそらくムクノキ
3本目の堤体。上に林道が走っている。
海風に揺れる新葉と花(ヤマザクラ)
ヤマザクラと堤体
2本目の堤体前で歌っているところ

大好き河津町!vol.7

このギャグがお分かりだろうか?

上の画像をご覧いただきたい。この場所は河津町河津筏場、多目的広場のトイレ前で撮った一枚。地面を指さして、なにを面白がっているのかと言えば、この一帯に敷かれている砂利が「岩滓(がんさい)」と呼ばれる形質のものだからである。別名をスコリアという。

自分が勤務するホームセンターのエクステリア部門ではこのスコリアを取り扱っていて、お客から訊ねられる事が多い。使い方として、こんなふうに駐車場に敷いたり、庭に敷いたりする目的で買っていくようである。また、ホームセンターという個人向け以上の使用量を要するところには、路盤材として使われるようだ。

多孔質で水分をよく吸収するため、透水性に優れた、つまり水はけの良い舗装路面が出来上がる。なおかつ、その吸収した水分についてはそのまま保持されるため、夏の猛暑の時などは地面の温度を比較的低くおさえる事が出来る。

さらに上の画像にあるような赤色のものであればなかなかおしゃれであるとも思う。グレーカラーの砕石には無い、暖かみのようなものが感じられる。

鉢ノ山

確認作業

一方でこちらは多目的広場を別角度から撮ったもの。真ん中でデーン!としているのは「鉢ノ山」である。

鉢ノ山もたしか・・・

自宅にある伊豆半島関連の資料を探してみたところ、「東伊豆半島ドライブジオマップ」というパンフレットにたどりついた。DM折りされたパンフレットをていねいに開くと、〔鉢ノ山 3万6000年前にできたスコリア丘(東伊豆半島ドライブジオマップより)〕とある。

やはり鉢ノ山はスコリア丘であったのだ。冒頭の画像だが、スコリア丘を眼前とする多目的広場トイレ前にスコリアを敷くというギャグは誰が考えたのか?と面白がっていたのである。(ギャグじゃないかもしれないが・・・。)

東伊豆半島ドライブジオマップ

佐ヶ野地区

この鉢ノ山および多目的広場であるが、河津町内では佐ヶ野地区に属する。同町に佐ヶ野という住所は存在しないが、近辺を南北に横断するのが佐ヶ野川でその最下流部には下佐ヶ野、そこより少し上流部には上佐ヶ野という地区がある。

伊豆中央の大動脈、国道414号線が南西方向にカクッと折れ曲がるのが河津町内下佐ヶ野の信号。信号名を言うより特徴的なのがセブンイレブン下佐ヶ野店。そのセブンイレブン前の信号を北東方向に曲がると、佐ヶ野地区に入る事が出来る。

道なりに進めば、あおきフード物流センター、上佐ヶ野公民館、河津浜病院などがあり、下佐ヶ野の信号より3.8キロ地点にあるのが前述の多目的広場。この多目的広場には駐車場があるため(画像を見ての通り。)、鉢ノ山に登る際はこちらに車を停める。

そして、この多目的広場以降のレジャースポットとしては2軒のオートキャンプ場と三段の滝がある。ゆっくり時間を掛けて佐ヶ野を満喫したいのであれば前者、限られた時間の中で名所を見たいというのであれば後者といったところであろう。

ミカンの実が黄色に輝く。
品種は甘夏、ニューサマー、福原など
三筋山のウインドファームが見える。
こちらにも駐車場はある。
三段の滝

左官屋

3月26日、入渓点を三段の滝とし、そこから約1キロほど上流にある堰堤を目指した。この日はスタートが午後になってしまったのだが、その午後の時間は超快晴。太陽が佐ヶ野川の水面をギラギラ照らすなか、遡行する事が出来た。

三段の滝ももちろん見事なのだが、それより上流部もまた見事であるということに気付かされる。一枚岩の上を水が滑り落ちていくナメのヵ所が多く、それらが緊張感を和らげてくれる。滑ってケガをすることも考えられるため、けっして侮ってはいけないナメだが、石の取り除かれた平滑な面を水が通り抜けていくその様を見ていると、どう見てもこれは“人工物に違いない”と思うのだ。

左官屋が来て、きれいに仕立ててくれたのだとしか思えない。足跡の無い渓を歩くことは緊張感を伴うものだが、そうやって誰かが「やってくれた。」と「勘違い。」しながら歩けるなんて、なんて幸せなヤツなんだと我ながら思う。

堰堤には入渓から40分ほどで到着した。

深い淵
洗濯槽みたいなタルミ
ヒサカキの花

ハイブリッドの堰堤

ここの堰堤は鋼鉄とコンクリートのハイブリッド。鋼鉄が川の下流側に向かってせり出しているため、樹木が引っかかったりすること無くきれいに保たれている。銘板を見れば昭和53年製ということで、私の人生よりも長く生きている。

スズキのジムニーという車に例えれば、SJ型の頃の話しであるから驚きだ。ジムニー、鋼鉄製堰堤ともに現役であったとしてもジムニーの場合はメカニックが介入している。鉄くずと化さぬように自動車整備士の手で大事に大事に管理されたものだけが公道上を今も走り続けているのであろう。

かたや、こちらの堰堤はどうか?佐ヶ野川上流域でほとんど忘れ去られながら時を過ごしている。森林管理局の職員や一部の釣り人などはこの地を訪れるであろうが、そのほかの訪問者はほぼいないのでは無いかと思う。誰の手も借りずに、幾度の嵐に耐えながら生きているということは、その下流の倒木などを見れば明らかなことだ。

bluetoothスピーカーの電源を入れる。選択したのは、シューベルト作曲のLachen und Weinen(D777,Op.59,No4)
本来の歌詞の意味から言えばこの曲は恋歌の一種なのだが、今回私は自分なりに違うテーマを持って歌った。掲げたテーマは「春への戸惑い」。冬が過ぎ、土も十分温まり、命が芽吹く季節を迎えた。

年々、Lachen(笑い)とWeinen(涙)のうち、むしろWeinenが分からなくなってきているような気がする。歳を重ねるごとに様々な経験を積み、対処が出来るようになってきている。
Weinenという言葉をどのように歌ったら良いのか?

春という季節を単純に喜べるようになってきていて、ほんとにこれでいいのか?と思えてしまう。春って、もっと心が不安定になる季節じゃ無かったっけ?

逆にこの有節歌曲2番の後半、
und warum du erwachen kannst am Morgen mit Lachenと歌うが、最後を思い切り「ラッヘン!」と歌えるようになってきている。

完全に自己満足の歌になってきているような気もするが、これでいいと思っている。佐ヶ野川上流部の自然に私の歌を受けてもらっている。そのことに対して感謝の気持ちしか無い。

太陽が傾き、落水を照らしていた直射日光が見られなくなった頃、遡ってきた渓を引き返した。

渓畔林が豊か。画像はモミの大木。
イロハモミジ
正式名は佐ヶ野本沢第1号鋼製堰堤
放水路天端以下がすべて鋼鉄、袖はコンクリート
堤体前にもナメが。
何に見える?熊に見える?
堤体全景。

増補改訂樹木の葉

増補改訂樹木の葉

最近、植物図鑑を購入した。
タイトルは「山渓ハンディ図鑑14 増補改訂樹木の葉 実物スキャンで見分ける1300種類 林将之著」
出版は山と渓谷社で、この増補改訂版の出版が2020年1月。まだ2ヵ月ほどしか経っていない新書だ。それより以前は同タイトルの初版本が同じく林将之著で出ている。こちらは、掲載種が1100とのことなので今回の増補改訂で200種が追加されたことになる。

今回の増補改訂を良い機会に、ということで購入した。ちなみに私はこれの初版は持っていない。しかし、この林将之を著者とする植物図鑑はすでに数冊目となっており、その林本(はやしぼん)の最新刊ということで、かなり期待に胸を膨らませて購入ボタンをポチさせてもらった。

やはり、掲載種1300というのはダテではない。今、手元に同書があり実寸計ってみたが、その厚さは3センチほどもある。同定しようとしている目の前の植物に対して、焦りながらページをバラバラさせてもこの図鑑の場合はなかなか該当の種までたどりつけない。同書の冒頭部にある「本書の使い方」の項目には〔調べたい葉の科や属が分からない場合は、p.13の総検索表から、葉の形態4項目、すなわち「葉形」「葉序」「葉縁」「落葉・常緑」を調べることで、候補種を検索出来ます。〕とある。

せっかちに挑むのではなく、その葉の特徴をまずはしっかり確認するところから同定を始めていきたい。

今回は岩尾支線林道に入った。2020年3月撮影。

例えばこんなふうに

例えばこんなふうに、植物を見つけた時に葉を見る。葉はギザギザのない全縁。今の時期にこれだけの活力を見せていることから判断すればこの植物は常緑樹である。

実際には同書はほかに分裂葉(もみじのような切れ込みがある?)であるかどうか、対生か互生(葉が枝やつるに対して交互についているかどうか?)かということも含めて探せるようになっている。さらに言えばその植物がつる性(ほかの植物などに巻きついたりするかどうか?)であるかどうかも親切に問うてくれているので、手順を追ってじっくりと時間を掛けてていねいに探せば、かなり高確率で目的の掲載ページにたどり着けることと思う。

「樹木の葉」を用いた同定の結果、上記の画像の植物は「オニシバリ」であることがわかった。

オニシバリの花。2020年3月5日、伊豆市筏場。

オニシバリ

このオニシバリという植物、じつは私のなかでかなり長い間不明の植物であった。

山中で谷を吹き抜ける風にビュービュー吹かれながら、その中で図鑑を片手にページを前に後ろにバラバラめくり続けるも、どうしても見つけることが出来ない。ヤマモモじゃないし、なんだこれ?寒いし、こちとら堤体目指して歩いているんだから、もう!という感じでかなり困っていた。

この植物自体は伊豆半島(御殿場地方でも)のあちこちでよく見かけていたので、決して珍しい種ではないと思っていたのだが、くだんの「樹木の葉」によれば、〔東北南部~九州の主に暖温帯に自生。丘陵~山地の乾いた落葉樹林内や岩場にやや稀。関東南部~東海東部に多い。〕とある。

やや稀。そして東海東部には多いか・・・。

私としては伊豆半島ばかりに出掛け、あちこちで当たり前のように見かけていたため、この植物に対しては当然のことながら“やや稀”という感覚がなかった。他の地方では珍しかったか?

そんな「?マーク」が確信と言えば良いのか、認定された、と言えば良いのか、再度よくよく自分が砂防ダム行脚に持ち込んでいた図鑑を確認してみたら、なんと“掲載されていなかった。”ということが発覚した。

2019年11月5日、河津町大鍋。

家に置いておく

掲載されていなかったことが偶然なのか、必然なのかは、図鑑という一工業製品の消費者である私には分からない。自分が山に持ち込んでいる図鑑もかなり同類製品のなかでは有力と言われているもので、これまで多くの植物を同定することでお世話になってきている。今回、不本意にも自分がこれまで頼りにしてきた図鑑に掲載もれがあることが発覚してしまったわけだが、これからどうしていくのか?

「樹木の葉」に切り替えるか?

いやいや、そんなことはない。こちらは探しやすさに長けた作りになっていて、自分自身気に入って使わせてもらっている。「樹木の葉」に比べれば、内容がややライトであることは(○○○種を掲載!というその数字を見ればそんなことは)すでに明らかであるが、それはそれでメリットでもある。

砂防ダム行脚という自然活動のなかでの携帯性を考えれば、重さの面でも、厚さの面でも「軽い」ということは有利にはたらくといえる。製品としての特徴、使い慣れた事による「探しやすさ」があって、そのことと内容面での厚すぎない程度、ちょうど良さがバランス良く共存しているところに使い勝手の良さを感じている。

単純に掲載量が多ければ良いというのではないというのが、今のところの図鑑に関する考え方。もちろん、情報量が少ないとなると上記に書いた件同様、目の前にある植物が、掲載もれのせいで何なのか分からずじまいに。という事態にも繋がりかねない。

現地でその時その場所ですぐに行うのが同定の然るべきやり方だと思っているが、それが出来ないのであれば「樹木の葉」のようなスーパー図鑑を一冊家に置いておき、あとで調べるのも手なのかな?と思った。帰ってきてから,あのとき見たのは何という植物だったかと、ゆっくり確認作業するのもなかなか楽しいやり方かもしれない。

以下の画像は3月19日の砂防ダム行脚。
前回のリベンジということで、
岩尾支線林道をひた歩いた。
そういったシチュエーションではなかなか、
ゆっくり本を開いている時間がなかったりする。
長野川と岩尾支線林道のクロス地点にはなんとか、
到着することが出来た。(伏流していた。)
沢は滝のちょっと上より湧き出ていた。
奥に堤体、手前に湧き水の構図。
いつも、当ブログに来てくれてありがとうございます。

昔の人はよく歩いたのだなと。

スタート地点。

3月12日は長野川上流域に入った。

午前8時過ぎ、車の中でスマートフォンの画面をタップする。電波は通じていることが確認出来た。本日は、夕方までに電話を一本入れておかなければならない用事があったので、まずはその件をここで済ませておいた。

電話の用件はあまりノリ気になれるような内容では無かったのだが、早めに終わらせることが出来て良かった。朝では無く夕方、山を降りてから連絡しようかとも思っていたので、これで焦らず、ゆとりを持って行動が出来る。

危険リスクを一つ減らせた。

それにしても、伊豆市湯ヶ島(長野)の林道最奥地から東京都内のオフィスビルに向けて業務連絡を行うという“スーパーギャップ電話”を体験出来て良かった。
自身の生まれた頃には、ほとんど普及していなかった携帯電話であるが、技術が発展し、普及し、今は一人一台という時代。山奥と都市部をつなぐ技術は今後もさらに進歩していくことと思うし、そしてそれは何よりも山奥で歌を楽しむという砂防ダムの音楽にとってプラス要素でしか無いと思っている。

今後の技術進化によっては、野外での芸術活動に、革命のような出来事が起るのでは?と期待しながら、今日もスマートフォンを見つめている。

入渓点右俣。

遡行をスタート。

午前9時に遡行をスタート。地理院地図によれば今回遡っていった先には二重線が一ヵ所、ほかに水の淀みで表した堤体が二ヵ所確認出来ている。標高およそ650メートルからスタートして、標高1000メートル付近にある岩尾(いわび)支線林道までの区間を新規開拓する予定だ。

スタート直後にある落差3メートルほどの小滝を超えて進む。沢よりだいぶ高いところには収穫用のモノレールが走っているが、どうやら現在は使われていない模様。倒木がドスンと乗っかった状態から判断して、放置状態にされている廃線軌道だ。この廃線軌道が意味することとしては、これより上流部にワサビ田があるということ。そしてそのワサビ田が今は使われなくなった“廃田”である可能性が高いということだ。

廃田であるかどうかは登ってみないとわからない。もしかしたら、昔の人のように歩いて通っているということも考えられる。伊豆半島は本当に本当に沢の奥地でワサビを栽培していて、驚かされることが少なくない。こんな山奥だれも来ないだろうと思っていたところ、突然現れたりすることが少なくない。現役のワサビ田の場合もあるし、廃田のワサビ田の場合もある。

いずれにしても、ある一定時期、その場所にある農家がワサビ栽培のために通い詰めたという事実がわかるのだから、これは敬服に値する以外なにものもない。ワサビを栽培する事そのものも本当に大変なことであると思うが、その前段階としての必然、まずは石垣作りの重労働があることと思う。夏の台風にも耐えられるように、大きな石を運んで組み上げた手造りの石垣。ワサビ田の主(あるじ)が丹精込めて築き上げた魂のこもった石垣。私自身においてはその上を時々歩くことがあるが、踏みしめる第一歩目はやはり躊躇をするものだ。

先人が苦労して積み上げた石垣の上を歩くという行為が非常にためらわれる。どこからか、私のことを見ているかな?と思いながら歩くし、本当に失礼の無いように、でも先人たちの作ったその文化遺産をよりダイレクトに理解するため、しょっちゅうありがたく利用させてもらっている。

今回は無かったが、現役のワサビ田。

青が水色に見え、

午前10時30分、ワサビ田の廃田が現れた。畳石式と呼ばれる階段状になったワサビ田だ。これより以前、遠目に発見した時には防風ネットの青が水色に見え、堤体発見か?と焦ってしまった。

防風ネットが破け、ダランと垂れ下がっている光景は見ていてやはり少し気持ちが悪い・・・。

沢との境目となる石垣のところどころは風雨によって破壊され、その上を歩くのはどう見ても危険な状況。ワサビ田の一番山側の端を歩き続けた。ただ、こんな状況でもワサビ田本体への導水管はきちんと機能しているようで、水はチョロチョロと流れ続けている。遡りながら、これまたあまり気持ちの良くないドロのようなそれに覆われたワサビ田を見続けながら歩いていたのだが、ふと山側に目をやれば、なんとスタート地点で確認し、その後いったんは離れていたモノレール軌道とここで再会することが出来た。

そこからは、沢、ワサビ田、モノレール軌道の三本に沿って進み、午前11時前、最初の堤体前に到着することが出来た。

画像右側にあるのが廃田。奥には格子状鋼鉄製の堰堤とケヤキの大木。

ワサビ田農家が毎日見ていたもの

堤体は格子状に組まれた鋼鉄製、堤高は最下部から計測しても6メートル程度とさほど高さはない。特に印象的なのは堤体前のすぐに樹齢???年もののケヤキの木が圧倒的な存在感と共に鎮座していることであった。また、その大ケヤキのすぐ右岸側には非常に美しいミツマタの木が植えられている。樹勢が果樹園の樹木のようにきれいに整えられていて、なんといっても花が咲いていて彩り豊かであった。

ここのワサビ田農家は毎日これらの木を見ながら、朝から晩までこの地で汗を流し続けたというのであろう。その後、歳月は流れ、木はここに居続けたが、農家は残念ながら去ってしまった。私自身、大きな空虚感に襲われたが、堤体の落水が近くにいてくれて良かった。「この沢の水だって恒久あるものでは無い。この水の流れも時の流れも現実はこうだ!」と誰かに教えられたような気がした。

午前11時20分、鋼鉄製の堤体を巻いた後さらに30分ほど遡れば、今度は同サイズの重量コンクリート式堰堤が現れた。これは上流部からの土砂が多いようで、左岸側の袖天端から直接落水してしまっている箇所が印象的であった。その堰堤も巻いてさらに二俣があって左俣側、見た目上だとけっこう高く、しかし6メートルほどの堰堤を見た。こちらは画像撮影したのちに離れて、右俣側を遡った。(最終目的地の岩尾支線林道はこちら側にあるため。)

ミツマタ

どこで引き返すか?の判断が難しい。

その後、遡り続けるとまたしても廃田があり、廃田を見ながら進むと一本の滝が現れた。見た感じの落差は10メートルほどもある、大きな滝であった。この時ふと時計を見れば、時刻は午後1時前。スタートからは4時間弱も歩いていた。ここで滝を巻くかどうかは非常に迷った。事前の計画では前述の通りもう一本上に(多分あるはずの、)堰堤に行くことにしていた。だが、ここまで充分歩いたという満足感もあった。どうしようか?

スマートフォンをタップして地図アプリを開くと、もう岩尾支線林道のすぐ手前まで来ていることがわかった。

・・・。ここで引き返すことに決定。それならば林道は見ない方がいいと判断して撤収を決意した。岩尾支線林道は一般車両について、入り口のゲートから先は入れないことはすでに明らかであるが、関係車両(林業系とか調査機関とか工事車両)などはおそらく頻繁に出入りしている“現在進行形の林道”だ。

ここまで、まったく人の気配の無い沢をケガせぬよう注意しながら、緊張感を保ち続けながら歩いてきたという自負があった。この緊張感が途切れるとするならば、それは今から人に出会ったり、新しく点けられた足跡(タイヤ痕)を見ることだと想像したのだ。イージーなものを見て気持ちが緩むことは危険への入り口になると判断し、引き返すため遡ってきた沢をUターンすることに。

よし、行こう。

帰り道はケガをしないように、無理をしないように一歩ずつ歩を進めた。そんな中でも2番目に見つけた重量コンクリートの堰堤では止まって歌を楽しんだりした。自分がなぜ沢を遡るのか?というその意義を自覚することはケガの防止には効果的だと常々思っているし、ただ単に堤体を前にやっぱり体が勝手に反応した。ということが大きい。

結局、往復の復路は1時間と少しで終了。スタート地点に戻ってくることが出来た。滝までよく歩いたなぁ。という心地よい疲労感に包まれていた中、ふと思った。

この沢でワサビ田をやっていた先人たちはこれを毎日やっていたのだ。

その健脚ぶりには脱帽。昔の人はよく歩いたのだなと。歴史を造ってきた人たちは、まず、歩いていたようである。毎日、体を動かして、結果を得ていったということだ。技術進化。それも良いがその前にまずやることがあるのではないか?スマートフォンを見つめ、変化に対して受動的に期待しているだけでは時代は変えられないのかもしれないと思った砂防ダム行脚であった

こんなのや、
こんなのもあるなかで
見つけた滝。
これも堤高6メートルほど。ミツマタの花がやはり美しい。
袖天端から落水している堤体。