Ⓐの画像をご覧いただきたい。ここは私の住む町、沼津市の西隣に位置する富士市内のとある場所である。道路を跨ぐようにして落石等から身を守るための鉄骨製の覆いがあるのがわかる。この鉄骨製の覆い、地元富士市民であればかなり知名度の高い場所であろうと思う。周りの景色がヒントになっていると思うが、とある野外活動スポットの山道を撮影したものだ。これがたかだか山道の覆いなのであるが、非常に有名なところなので「あぁ、あそこね・・・滝の。」と、なると思う。
もう今年は終わってしまったが
静岡県民というのはとかく川遊びが好きな県民であると思う。もう今年は終わってしまったが、夏休み期間中に川沿いを走っていると、川で水遊びやらバーベキューをやっている人々をよく見かける。家族連れで大きなテントやタープを張って本格的にやっているような集団も見かけるし、全員学生風の者たちが自転車数台で乗りつけて河原で遊んでいる姿、こちらもよく見かける。どうせ学生同士で集まるのなら、川では無くて海に行けばいいのに・・・。とも思うのだが、より水の冷たい川水に刺激を求めてか、静岡の元気な子たちは川に全員集合!と相成るようである。私は幸か不幸か学生の頃よりやせ形ボディであったため、いくら夏とはいえ水温の低い川の水の中に入って遊ぶなんて事はできるわけがなかった。川は苦手。(ただし釣りは別。)川派ではなく海派であったのだ。もっとも私の場合、出身が新潟県の内陸部の町であったため、海は滅多に行けない憧れの場所として意識づけられたので海派であったのだと思う。実際、海へ行くとなると自転車の場合は片道2時間以上こぎ続ければならなかったし、他力に頼るのであれば父親の運転する車ということになる。あとの手段は公共交通機関があったが、学生の頃なんてそんなにお金を持っていなかったから、この手段はあってないようなもの。そんなわけで自分の生活圏から海というのはとても遠いものであったし、憧れたし、その空間で過ごせる時間というものはたいへん貴重なものであった。その時間を言葉で言い表すのならば「非日常」であったと思う。
“非”海沿い地域の出身者の思い
さて、静岡県民はどうであろうか?静岡と言ったって広いから一概には言えないが、東西に長い海岸線をもつ静岡県でのことである。海辺に住む者たちを中心に、川にこそ「非日常」があったのではないか?
自分が仮に海沿いの地域の出身者だったら、と考えてみた。
自分が仮に海沿いの地域の出身者だったとしたらまず、海そのものを見ること。この事に別に何の感動も無かったと思う。新潟県は海に接した県であるが、前途したとおり自分の生活圏からは遠いものであったから、海を見る。というそれだけの行為にただただ感動したものだ。自転車でも父親の運転する車でも電車でも、一番海側にある低い丘を越えて、視界にバッと海の青、水平線が入ってきた時のその感動はなんとも言い難いものがある。そして海沿いの地域の日常、つまり浜の日常というものに非常に憧れた。自分の住む世界とは違い過ぎて、なにもかもがめずらしく、新鮮であった。民家の軒先に漁具がぶら下がっている光景、松の林、道路上に散らばる砂、浜にただよう生臭い匂い、海沿いというのは工場も多いし、夕方の5時とかに鳴る防災無線のチャイムですらかっこよく、全てが憧れであった。また、海辺でよく見かける、自転車にクーラーボックスをくくりつけ、ウキの付いた釣り竿やら、でかいタモ網を握りしめて自宅と釣り場の間とを行き来する人、これが本当にうらやましかった。自分もいつかはそういう暮らしをしてみたい。と、そう思った。
海沿い地域の出身者の思い
だがよく考えてみると、それらがその地に生を受けた者として「あたりまえの毎日」であったらどうだったであろうか?そんなのは、田舎くさくて嫌だ!となりそうもなくはない。また、海というものは全てのものが“流れ着く”場所でもある。海岸線でも河口付近でもとにかくゴミが落ちていて汚い。それらも、生活圏として見た時にはマイナスポイントなのかもしれない。そのような環境に日常的に身を置いていたとしたならば、海なんて別に魅力的でも何でも無い。むしろ汚いし、臭いもするし、大嫌いになる可能性すら含んでいる・・・。
自分が海沿いの地域の出身者でだったとしたら・・・。もはや想像の域を超えることは出来ないが、透き通った水の流れる川に憧れる。そして、そこで遊んだり、食事をしたり、寝泊まりしたりすることに「非日常」を感じ、行動する人たちに対して自分も少しは近づくことが出来てきたように思う。
憩いの場
透き通った水の流れる川、富士市北東部山中を流れる須津川もまた、そのように多くの人々から認められ、愛され、利用されている川であると思う。この川に関していう利用とはズバリ「憩いの場」である。静岡県内屈指の工業都市、富士市の工場ジャングルの中で、生産第一!と、昼に夜に汗水流して働いている人は多い。そういった富士市民、のみならずまた市外からの訪問者を受け入れ、楽しませ、自然を感じさせ、思い出を提供する「憩いの場」をこの川はわれわれ人間に与えてくれている。例年、夏休み期間中は川遊び、バーベキュー、キャンプで川沿いは大賑わいとなりその盛況ぶりに驚かされる。そして、なんといっても忘れてはならないのが、その最奥部(一般車両が入れる最奥部)にある、大棚の滝だ。
大棚の滝、下流の砂防ダム
冒頭の画像Ⓐはその大棚の滝前の歩道の様子を撮影したものである。そしてⒷの画像が、その落石防止用の覆いの中から撮影した大棚の滝である。砂防ダムはそれよりも数百メートル下流にある。ここは川幅があり、川の中心部においては空からの光を遮るものが乏しい。しかし、こういった場所でもやはり渓畔林の下に入ることにこだわって立ち位置を決定したい。当日は両岸の岸際から生えた木の中から、左岸側に幾分伸びていたイロハモミジの木の下を選び出し、そこから堤体に向かって歌った。Ⓒの画像の私が立っているところでは無くて、カメラが置いてあるあたり、つまり堤体からおよそ100メートルほど後方に下がったあたりも崖に生える渓畔林の働きがあってこれまた楽しめる。とにかく、暗くなったところを見つけるのが、歌の世界に入り込むためのコツだ。ここは須津山休養林として開発された土地であるため、そのエントリーのしやすさも音楽表現をするにあたり有利にはたらいてくれる。気軽に入れるところであるから、気持ちの面で負担が少ないのだ。しかしそういった意味で逆を言ってしまうと、日中の時間帯は人が多い。ただ場所に関して言えば、幸い、この堤体付近ではキャンプを張る人が少ないので、そのことを生かして早い時間帯に入ってしまえば別段、問題に直面することは無いであろう。チャンスタイムは早朝である。