夏至が近づいてきた。
この時期は退勤後のゲームがおもしろい。
会社の就業時間が終わってから入渓し、あたりが暗闇に包まれる直前、日没前まで歌って帰ってくるという遊びだ。
山に行き、渓に立ち入って歌うという行為。
「この日に行こう!」と何日も前から計画を立てつつ各種手配を済ませる。さらにツールも用意して当日をむかえるというのが通常のやり方であるが、退勤後のゲームはもっと本能的で衝動的だ。
「この日に行こう!」は、多くの場合ない。
「よし、今日は!」といった感じで、急遽その日に行くことを決定して行動にうつす。
会社帰り。今日だけはメシのことも風呂のことも忘れて山にでかけよう!
そして渓に立ち入り、堤体前に立ってみる。
堤体前に立ってみる。
で、一体なにをすればいいの?
???
そう。この遊びの特殊性はそこにある。
少しでも歌うことを意識して出掛けているのならば、堤体前に立ってみて歌えないということはまあ、まず少ないだろう。
それはとくに良い堤体の前に立ったとき。
ここでいう良い堤体とは「歌える堤体?」という問いに対して最適解を出せる堤体のこと。
良い堤体は歌う気がなくてもその場所に立ってノイズを聞いていると、自然と歌えるようになってしまう。なぜなら良い堤体はロケーションやノイズそのものが歌うことを誘ってくれるから。
そんなに・・・、今日は。というような時も。
歌いたくて歌いたくてしょうが無いようなモチベーションの高いときも。
「こんなに歌うつもりじゃなかったのに・・・。」
ときにはそんな入渓前の人の気持ちを180度ひっくり返してくれるような驚異の状況に遭遇することさえあるくらいだ。
まずは堤体前に立ってみて!
自分自身が知らなかった自分自身に出会い、びっくりなんてことがあるかもしれない。
歌って気持ちよくなって、また翌日から元気よく働けるように準備しよう。
工業団地発。退勤後のゲーム
6月14日。本日のスタート地点は静岡県三島市「三島沢地工業団地案内図」前。
正直いってここは今まであまり来たことが無かった場所。日没前のゲームを提案するのにスタート地点をどこか決定する必要があったが、国の運営基盤を支える製造業へのリスペクトも込めて今回はこちらをスタート地点とすることとした。
午後4時50分にスタート。場所は三島市東部、山の中腹に設けられた工業団地。一級河川「沢地川」に沿って走る一本の道は三島市市街地へつづく主要道路。
静岡県道でも三島市道でもないこの道は三島市市街地のなかでも中心部・JR三島駅方面に向かって一直線に下りて行くことができる非常に重要な、なおかつ最短ルートの道である。
それはまさに「集中化」という言葉があてはまるような状態だった。
道路は勤務を終えたであろう方々の帰宅ラッシュ。
車、車、車の次にまた車。
渋滞というまでの現象は見られないものの、通勤目的とみられる車が非常に多く、車列状態を形成していたのだった。
まるでオイルタイマーから生み出された油粒がコロコロと坂を転げ落ちるように。次から次へと一本道に車がつづく。
これではこちらは邪魔になってしまっているだけではないか。軽い気持ちで来るんじゃ無かった・・・。
帰宅ラッシュの車の車列に割りこみ、何事も無かったように坂道を下った。
申し訳ないなということと一つ社会勉強になったなという気持ちを得たスタートとなった。
箱根峠をこえ神奈川へ
午後5時10分、三島市加茂インターチェンジより伊豆縦貫道へ。下田・伊豆市方面を選択し、伊豆縦貫道に上がる。
午後5時15分、三島塚原・箱根出口の看板にしたがい伊豆縦貫道を外れる。外れた先には三島塚原インターチェンジの信号交差点。交差点を左折すると道は国道1号線となった。
国道1号線に乗ってからは箱根峠への道をひたすら登りつづける。
さらに細分化された名称としては、三ツ谷バイパス、笹原山中バイパスの二つの区間を経由。箱根峠を通過したのは午後5時45分のこと。
午後6時前、国道1号線箱根新道「黒岩橋」を通過。通過直後には下り車線側に見慣れた駐車スペースがある。車はその駐車スペースに停車させた。
逃げる相手は必死
午後6時、車から降りて入渓の準備。ウエーダー、フローティングベスト、ヘルメットを装着するとともに谷沿いを吹き下ろす冷涼な風が吹くことも考え、レインジャケットを着用。また、手にはグローブをはめ、登山用のポールを1本握った。
午後6時15分、本日入渓する須雲川の床固工区間の堤体に向かって林道の坂をおりてゆく。樹木の葉に覆われた林道はかなりの暗さ。そしてこれを画像に収めようとデジタルカメラでの撮影を試みたが、手ブレのような画像になってしまいうまく撮ることができない。
解決策として携えていた三脚をとりだし、わずかにもカメラが動かないように固定してやるとなんとか撮影することが出来た。
肉眼ではいろいろなものが捉えられているのに、カメラにとってはすでに営業時間ギリギリのようである。
午後6時20分、床固工すぐ横の護岸帯に到着。
!!!
ひときわ大きな茶色の物体が激しく動き回る光景が目に飛び込んできた。
茶色の物体の正体はニホンジカ。
こちらはハンターじゃないのだよ。という眼差しを投げかけるもシカはかなり動揺しておりあちこち動き回っている。
しなやかな足の筋肉で川水をドボンドボンと蹴りながら、床固工の区間を上流へ下流へと必死に逃げ回る。全体が側壁護岸に囲われた床固工区間であるため、簡単にはその外に出られないようだ。
こちらは驚きとともに見つめていたが、ついには覚悟を決めたようで川岸向こうの高さ2.5メートルほどの側壁護岸に向かって大ジャンプ。すると、前足2本だけが護岸上に着地。あとの後ろ足2本は宙ぶらりんの状態になり、躯の大部分はまだ護岸の下に向かって重力で引っ張られている。これでは落下してしまいそうな危うい状況だ。
しかし、なんとか宙ぶらりんになったところから2本の後ろ足をつかって護岸のほぼ垂直になった壁を捉えると、そこから何度も壁を蹴りつづけ、どうにか護岸上にあがることに成功。そして直後には林の奥へと消えていった。
申し訳ないなということと一つシカの逞しさを勉強したという複雑な気持ちとともに入渓点着。
落ち着いたところで高さ2.5メートルほどの側壁護岸をおりる。
2.5メートルでは少々高すぎるため、石が置かれていてもうちょっとイージーになった高さ2.0メートルほどのところより河原に降り、堤体前着。
優秀な堤体前
午後6時25分、とくに焦るわけでも無く。(ここまで写真撮影によってかなりの時間を消費していた。撮影が無ければ推定30分は早く到着できていたはずだ。)
しかしまぁ、こんなもんだろうといった感じ。
刻一刻と迫りくる暗闇に対する余裕であるが、唯一すでに難しくなってきている写真撮影についてはなるべく早いうちに済ませておこうということでカメラを手にとった。
床固工区間の頭上はほぼ全面、落葉樹のみどりに覆われている。歌うときの目標物とする堤体より下流50ヤードくらいは川の中央にギャップ(樹冠の切れ目)があり、空から光が差し込んでいる。
しかし、それ以外は左右両岸の渓畔林より延びる枝と展葉する葉によって暗がりが形成されている。
本日は日没前のゲームである。通常と異なっているのは、上空より差し込む光が必ずしも悪にはならないということ。辺りすべてがまっ暗闇に包まれるその時間がタイムアップとなるため、その時間をなるべく遠ざけるためにも、光の進入経路はある程度確保されておきたい。歌に入り込むための暗がりと「ゲーム時間の延長」につながる明るさがバランス良くミックスされた、優秀な堤体前に来ることができた。
響かないときにやること
自作メガホンをセットし声を入れてみる。
レーザー距離計で計測した43ヤード付近は響かない。あせらず後退し、48ヤード付近に立ち位置を変えてから声を入れてやると、堤体手前、奥、側壁護岸外側の渓畔林でよく響いてくれた。
少し残念なことがあるとすれば、堤体より48ヤード付近は川のほぼ中央位置にキンボール大の大石が置かれていること。これではここを立ち位置とすることが出来ないため歌い手は右岸寄りもしくは左岸寄り、いずれかに立って歌うこととなる。
見た目の印象から左岸側を選び出して歌ってみたら安定して声が響いてくれた。風も1メートル毎秒程度、断続的に吹いてくれていてこれが響きの面においても快適性の面においても非常に心地よく作用してくれている。
川の中央にある大石を避けた水は足もとを流れ、特徴的にノイズを発生させているが、周囲の広い範囲で声がしっかり響いてくれているので、このノイズはあまり気にならない。むしろ、その決して弱くはないノイズを克服できたということが自分自身にとって充実感につながっていた。
自身、ちょっと難しいことをクリアできるようになると途端に気分がデカくなってしまうところは我ながら面白いと思った。
暗闇のなかで
結局この日は午後8時まで堤体前で遊んだ。照度計も持って入渓したのだったが、それよりも自分自身の目で見て感覚的に「日没前」と言えたのは午後7時半頃までのこと。以降30分間は暗闇の中で声を入れていくというゲーム内容に切り替わった。視覚情報が絶たれるなかで、響きに対してはより一層、明るいとき以上に集中して楽しむことが出来た。
渓という演奏場所に立って音楽を楽しんでいくためには何をすればよいか。
ノイズの音に包まれた環境下では歌い手自身が響きを聞き求めにいくことが大切なのではないかということを最近かんがえるようになった。
堤体とそのまわりの広い範囲に声を入れるというという行為。
声を入れるだけでなく、入れた声を索しにいくという感覚も大切にしていきたい。誰のためというわけでなく、自分自身が歌を楽しむために。
暗闇を見つめ、歌い、そして声を索して遊んだ。